2024年04月28日

佐賀の語元「賢姫」とはユダヤの初代国王ダビデに関連する人物だった!

◆『肥前風土記』の逸文に記す【ヨト姫】(ヨトヒメ)が佐賀県の語元と成った【サカシヒメ】(賢姫)であっ。因みに、別名「ユタヒメ」(豊姫)とは、「豊かな国」の意とする文言に起因する。つまり、ヨト姫の【ヨト】とは、イスラエル初代国王ダビデを示唆する文言である。その意味する処は、山幸彦が失った釣り針が、有明海北西部に位置す処の鯛の口から発見(ホツマツタヱ25章 https://gejirin.com/hotuma25.html )された。

つまり、鯛の三ツ山鱗を上下に反せばダビデ紋「六芒星」の形状と成る。従って、ダビデに対する数秘術(カバラのゲマトリウア数価は14=トヨの語元数価)数価【14】(4+6+4=14)を「トヨ」と言い、失った釣り針を探し出した女性に対し、「14=トヨ」を逆さに読んで【ヨトヒメ】と言う名前が与えられた。早い話が~釣り針を探し出した女性「アカメ=赤女」(有明海北西部を拠点としていた王で豊玉姫の父に仕えていた女性)は、「海人ハデツミ王」から「ヨト姫」言う名前が与えられた。それが後に【賢姫】と呼ばれたのであったであった。


佐賀県の語元は、『肥前風土記』 (元明女性天皇が和銅6年=713年に諸国に命じ作製させた文書)の逸文(欽明25年11月、肥前国の佐嘉郡に與止姫神=淀姫とも言う)に、「與止(ヨト)姫神」 あり~。と記されていて、その女性が【サカシ姫】(賢姫)であり、肥前国の佐賀の語元であった。

その「與止(ヨト)姫神」が鎮座された処の地名(肥前国の佐嘉郡=佐賀県の語元)が、現在に言う佐賀県の語元(黎明の語意を有す語源の意ではない)である。つまり、その語元に関連付けられた「ユタ(豊)姫」とは、ユダヤの初代国王ダビデ(紀元前1040年~紀元前961年)に関連付けられた呼称であり、そのルーツを引く人物だったから「ヨト姫」と命名されたのであった。その呼称の命名の経緯は、彦ホホデミ尊の妻となったトヨ玉姫に起因する。つまり、その物語は『日本神話』に記されている処の「海幸&山幸彦」であるが、それは史実に基づく物語でもあった。何故か言えば、山幸彦が無くした釣り針の発見地は九州有明海の干満差(最大約6メートル程で日本一とされる)に関連付けられた~「ウテナ=台の館の王ハテ祇の持ち物」。つまり【ハテの神風の珠】(筑紫の海神ワタ祇=台の館のハテ王が贈った干満を操る美しい珠/ホツマ25章)をモチーフとして構成されているからである。

その物語に因ると~「鯛はウオ(魚)君、御食の物、シルシ(印・標)はウロコ、三ツに山、ウツシ(写)て反す、ミツ山の、鯛は此れ也、口はイム、アカメ(赤女)お誉めて、ヨト姫と名前を賜る」(ホツマ25章)。」~等と記されている。然し、此の話は『日本書紀』と『古事記」の編纂時に削除されています。   

つまり~鯛の三ツ山鱗を逆さまに上下写し反せば「△&▽の合成形」となる。その意味する処は~【六芒星】の形状であり、ダビデ紋を意味します。つまり、「ヨト姫」(與止姫)の「ヨト」を逆さに読めば「トヨ」となる。その「トヨ」の文言が「豊受カミ」の語元となりました。早い話が、『日本神話』、及び、【ヤマト(日本)国家創建史】(ホツマツタヱ文書)の作成に当っては、【メビウスの帯・輪】的内容を駆使した堂々巡り的に構成し作成されている。


 



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Posted by 小島 宏 at 05:40 | Comments(0) | 『佐賀の語元に付いて』

2024年04月19日

ヤマト言葉ヒフミヨ物部鎮魂神事~「1文字・数価単語」の設定方式



『ホツマツタヱ』~その「アワ歌・アイウエオ」の記号文字は、ユークリッドの『原論』(ギリシア語ストイケイアの著者=エウクレイデスはプトレマイオス1世治世下のアレクサンドリアで活動していた)内容に起因します。ちなみに、その当時はギリシア語訳聖書(72巻本)が作成された時代に当ります~

その母音記号文字「〇・冂・△・.弓・口(ア.イ.ウ.エ.オ)は、プラトン多面体(5種類~火.△/土=地.▢/水.◇)を用い、「空気=空」の記号は、【〇】(空は円形に近い正12面体&正20面体に関連する)の形状を取り込んだ。そして、その子音記号(・.H/I,H/Y.H)は、Godヤハウェ(口にすべからずカミの御名の意/出エジプト記20・1~ 7)を言い表す文言の省略文字、即ち【聖4文字=IHVH&YHVH】、その最初の2文字(・.H/I,H/Y.H)を用いて設定する。そして尚、Godを意味す「初めと終り」の意とする「AとΤ=十」字を取り込み設定(・/I/II/T/Y)されました。因みに、最初の子音の点記号【・】は、ヘブ文字のヨッド(yod・ iod・ jod/ヨッドはAと交換出来た)の意です。尚、子音記号最後の菱形【◇】は、「天と地」の意の【地】の形状を意味します。

従って、ホツマ【アワ(天地)歌】の文字配列は、ホツマ文字の母音と子音配列順をギリシアのイオニア式文字配列順方式に合致させて「口伝教義」ゲマトリア数価(数価合計で意味を解す数秘術)の使用を容易にする為に並べ変えられました。そして、ヤマト言葉に因る「1文字数価単語」(天忍穗耳尊系物部氏族に伝承された/ヒフミ鎮魂歌神事)が造語されました。

◆【1文字・数価言語】~「ヒ8+フ13+ミ10+ヨ5+ヰ19+ム15+ナ4+ヤ23+コ22+ト2+モ1+チ16+ロ3=141」。+ト迄数えて(55+141=196)震え唯~「フル」(フ91+ル78=169+ト迄の合計196=1年循環法則数価365)の事ぞとミコトノリ(詔/ホツマ第20章)~。つまり「既に罷るも蘇る」とは、1年循環(春夏秋冬)法則数価365に基づき、春になれば「枯れた植物は蘇る」と言う事を示唆する神事(当時は立春正月だったから大晦日頃の神事とされていた?)であった。

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Posted by 小島 宏 at 01:21 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2024年03月20日

日本語「ハル.ナツ.アキ.フユ」(春夏秋冬)の造語者は大祭司【ΙΑΩ=八尾のアラヒト】!

◆「IAΩ=ヤオ」(1947年発見の死海文書の断片文字が初出/八尾市の語元文字)の語元に始まる【日本建国・創建史】!!

◆「IAΩ=ヤオ」(1947年発見の死海文書の断片文字が初出/八尾市の語元文字)の語元に始まる【日本建国・創建史】!!
日本語の季節文言~「ハ3+ル12+ナ4+ツ11+ア1+キ7+フ13+ユ14/計65」(春夏秋冬/アドナイ・メシア=ADNI数価65)を造語したのは、大祭司【ヤオのアラヒト」でした。

今日、閏年2024年(令和6年)3月20日水曜は【春分の日】(秋分から春分迄は約197日目で次の秋分迄は約186日目で1年365日となるが今年は閏年なので187日目にあたる)。その、1年循環法則(年中行事の設定)が我が【日本建国創建思想】(AD1世紀~4世紀頃迄の時代の物語)の根元であった~

つまり、秋分から春分迄は約「179日」。その【数価179】を語元として我が国の季節呼称「アキ=秋」が造語されました。その「アキ」の造語の経緯は神代の時として、ホノアカリテル彦(瓊瓊杵尊の兄)が東北のクニトコタチの国(現在の茨城県地域)から奈良の斑鳩の里に天降御座するに先立って、ミコトノリ(詔)が発せられた~
★マウラ(占い者)お召して、ウラ(占い)問えば、マウラフトマニ(真占太占)、アキニ(秘儀数価179は春分の日を示唆する文言)取る、今春(春分の日)なれば、西の空、民疲れ無し、ヨシ(秘儀数価186は春分から秋分の日迄の数価)良しと、ミコト(ミコトノリ・詔)定まる(179+186=1年循環法則数価365/ホツマツタヱ・20章)~

つまり、それが我が国の建国思想(ホツマ=ヤマトとは世界で最初の1日&1年の朝日が昇る地域の意)文言であった。それを要約した文言が~
★卅有一年(西暦31年はイエスキリストが十字架刑に処された年に当る)夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉(トンボがツガル形状/二つの物が一組みになる意)」由是、始有秋津洲之號(ヤマトの国号)也。従って~「昔、伊弉諾尊目曰、此国曰、日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国(袍図莽句爾=ホツマクニとはヤマトクニと同義語)」~と『日本書紀』の神武天皇31年条に記載されています。

因みにみ、その筋書きを創ったのは、現在の八尾市竹淵(タコチ)地域を居住地としていた大祭司「ヤオ(ΙΑΩ)のアラヒト」(世襲呼称)でした~
…~「ハ3+ル12+ナ4+ツ11+ア1+キ7+フ13+ユ14/計65」(春夏秋冬/アドナイ・メシア=ADNI数価65)を造語したのは、大祭司【ΙΑΩ=八尾のアラヒト」でした。

今日、閏年2024年(令和6年)3月20日水曜は【春分の日】(秋分から春分迄は約197日目で次の秋分迄は約186日目で1年365日となるが今年は閏年なので187日目にあたる)。その、1年循環法則(年中行事の設定)が我が【日本建国創建思想】(AD1世紀~4世紀頃迄の時代の物語)の根元であった~

秋分から春分迄は約「179日」。その【数価179】を語元として我が国の季節呼称「アキ=秋」が造語されました。その「アキ」の造語の経緯は神代の時として、ホノアカリテル彦(瓊瓊杵尊の兄)が東北のクニトコタチの国(現在の茨城県地域)から奈良の斑鳩の里に天降御座するに先立って、ミコトノリ(詔)が発せられた~

★マウラ(占い者)お召して、ウラ(占い)問えば、マウラフトマニ(真占太占)、アキニ(秘儀数価179は春分の日を示唆する文言)取る、今春(春分の日)なれば、西の空、民疲れ無し、ヨシ(E15+Σ171=186/秘儀数価186は春分から秋分の日迄の数価)、良しと、ミコト(ミコトノリ・詔)定まる(179+186=1年循環法則数価365/ホツマツタヱ・20章)~

つまり、それが我がホツマ=ヤマ国の【建国思想】(ホツマ=ヤマトとは世界で最初の1日&1年の朝日が昇る地域の意)文言であった。その文言れを★要約した文言が~

★卅有一年(西暦31年はイエスキリストが十字架刑に処された年)夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣」。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉(トンボがツガル形状/二つの物が一組みになる意)」由是、始有秋津洲之號(ヤマトの国号)也。従って~「昔、伊弉諾尊目曰、此国曰、日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国(袍図莽句爾=ホツマクニとはヤマトクニと同義語)」~と、『日本書紀』の神武天皇31年条に記載されています。

因みにみ、そのカミ代の筋書きを創ったのは、現在の八尾市竹淵(タコチ)地域を居住地としていた大祭司「ヤオ(ΙΑΩ)のアラヒト」(世襲呼称)でした~

タコチ(竹淵)神社
  


Posted by 小島 宏 at 05:55 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2024年03月14日

「日本国家・創建年」は【荒神谷遺跡】(銅剣358本出土)に関連する!

【伊万里神社】

【追記】~★日本人の聖書として書かれた『秀真伝』(逸書「日本紀」⇨現存『日本書紀』の底本)!!

現存『日本書紀』巻頭文の日本開闢物語(劈頭=ヘキトウ聖句の漢字130字文言)は、『旧約聖書』創世記の劈頭聖句(モーセ五書・創世記の劈頭文言)の焼き直し版である。その証拠は「ミコト」の語元(創世記のアッカド語BRASIT⇨ベラシト秘儀数価3910⇨ミコト・命=尊)です。つまり早い話が、日本語訳としての秀眞伝(ホツマツタヱ)の姉妹書とされる三笠文(ミカサフミ)、その「タカマ成るアヤ」(6章)の文面の編集文言と考えられます。

ミコトの語元ルーツは、旧約聖書の創世記(BRASIT=ベラシトとは始めに~の意)のアッカド語BRASIT数価3910(ミコト・命・尊)であり、それを倭語(ヤマト言葉)に変換するに当たっては「ミコ39×ト10=390」として、それはユダヤ民族の罪咎に対する悔い改め期間年数(エゼキエル書4・4~5)である。その証拠と成るのが加茂岩倉遺跡(島根県※雲南市)出土の「銅鐸39個」。又、その近くの荒神谷遺跡(島根県出雲市)出土の「銅剣358本」です。つまり、その数価「39」と「358」が意味する処は、創世記49・9~10に記す~「イェバ・シロー文言フレーズ数価358」(メシアが来るであろうの意)と言う最初の預言であり、又、「39」は、ヤマト国家の創建に関連します~

その銅鐸39個と銅剣358本が埋められた事を記す文言がホツマツタヱ(ホツマ34章・60年条)に記載されています。因みに、その始まりは~孝霊天皇から賜った「玉川・カン宝フミ」(武田の祖タケトメ=ハラオ君瓊瓊杵尊の子でホノアカリ。その長男で梅ヒト(三男が山幸彦ホホデミ尊)の長男ニギハヤヒ国照の弟タケヒテルが出雲の国に納めた文書に関連する(ホツマ32章参照の事)。

★五七調歌~「八雲立つ、出雲健(タケル)が、ハケル(佩ける)太刀、ツヅラ(葛籠)サワ(沢山)巻き、憐れサヒ(眞刀)無し」(ホツマ34章60年条)。 
★「タマモ(魂も)シツ(鎮)、出雲マツラハ、マクサマシ、カヨ代オシフリ、ネミカガミ(寝身・鏡/景初三年銘入・三角縁神獣鏡)、ミソコ(39)宝の、ミカラヌシ(身空主)、谷身括り身(荒神谷遺跡出土の銅剣358本は括られていた/島根県出雲市斐川町神庭から出土)、タマシツカ(魂静か)、ウマシ御カミは、ミカラヌシ(身空主)ヤモ」。
※卑弥呼の鏡とされる【三角縁神獣鏡】(景初三年銘入鏡)も、銅鐸が一括して39個出土した島根県雲南市「神原神社古墳」から出土している。

因みに現存『日本書紀』の崇神天皇60年条の漢字訳は、意味が通っていません(チンプンカンプン)~

「ミソコ(39)宝」の数価【39】の出自は、古典期ギリシア27文字配列順数価を用いた「ミK11+ソΔ4+コΧ24=39」文言数価である。つまり、それを創世記のアッカド語(アラム語は紀元前アッシリア&新バビロニア王国の公用語)による文言BRASIT(ベラシト)の秘儀数価「3910」(ミコトの語元ルーツ)に関連付けるを以って、エゼキエルが定めた罪咎に対する悔い改め期間年数価390」(エゼキエル書4・4~5)を示唆すると共に、ミコト(39×10=390)の語元と定義し、設定しました。

その解読に至ったのは、1948年4月12日付ロンドンタイムス紙の二十世紀最大の考古学的発見(羊皮紙巻物=死海文書)と言うニュースによって、それ迄は歴史の闇に閉ざされていたクムラン秘儀教義宗団(ダマスコ契約宗団はエゼキエルが定めた悔い改め390年を全うした宗団であった)の存在が初めてあかるみと成った事に起因します。つまり、クムラン集会所遺跡の発掘調査率いたフランスの考古学者でカトリック教会の神父でもあるロラン・ドゥ・ヴォー氏によると、紀元前31年にクムラン地域をも襲った大地震で集会所も破壊された。そしてそれ以後、その秘儀教義宗団の行方は不明とされています~【追記】以上~





【ヤマト言葉】(国語)の始まりは、伊万里の語元数価358に起因する。そしてその秘儀数価【358】は、「日本国家・創建年」に関連する【荒神谷遺跡】から出土した「銅剣358本」にも関連する!

今日は「2024年2月11日・建国記念日」。その 神武天皇の即位元年を紀元前「660年」とするのは間違っています。つまり、国家としての実質的成立年は「幻の西暦351年」に当る崇神天皇12年条(日本書紀)に記すミコトノリ(詔)。即ち~「肇(ハツ)国知らすミマキ(崇神天皇)の代」と発せられた文言に起因します。

その詔の年を以って新たにヤマトの歴年史は再設定されました。その再設定方式は、【太神宮諸雑事記第一】に記す雄略天皇21年(AD477年=伊勢皇大神宮建立年)から484年過去に遡った紀元前7年の時と記すが、その原点は崇神天皇12年(AD351年)から過去に伊万里の語元数価年「358」(創世記49・9~10・メシア=シロが来る意の文言数価/ゐ.T190+ま.E15+り.R153=358)遡った紀元前7の時として設定された「長髄彦討伐6年戦争」(神武東征はハルマゲドンの模倣戦)完了後に当たる「幻の西暦1年目・辛酉」(ヘロデ王の第7年=ユダヤ大地震発生年から31年目)が、本当の日本の建国元年に当ります。

因みに、その「660」と言うのは、苦戦を強いられ八尾の竹淵(タコチ)地域にタケヒト(神武の幼名)皇軍が陣を退き(八尾市史・竹淵神社縁起参照)、作戦を変更した紀元前3年から「660年後」(垂仁天皇26=紀・在位通歴657年)に、伊勢神宮が建立されたとする数価年に当ります!!
  

Posted by 小島 宏 at 05:08 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2024年02月28日

カミ代文字で書かれた『ホツマツタヱ』(秀真伝)を偽書と言うのは本末転倒です!!

カミ代文字で書かれた『ホツマツタヱ』(秀真伝)を偽書と言うのは本末転倒です!!

因みに、日本最古の歴史書とされる現存『日本書紀』とは、養老四年(AD720年)に元正女性天皇に奏上された【日本ギ】(ギ→紀/現在は逸書となっている)の下書き文書が、早速、その翌年に行われた【日本紀】の講筵(講義)にテクスト的に使用(例会は康保2年=965年頃迄ほぼ30年に1回宮中で行われていた)された、その下書き文書を、明治時代に経済雑誌社が編輯し刊行した本。つまり『日本書紀』(ヤマトフミ)とは、【日本紀】(逸書・日本紀)の下書き写本伝承本だった。

★~現在の日本の歴史学者や言語学者には学問の自由がなく、学生が【神代文字】に付いて卒論を書こうとしたら止められた!!

★~日本の言語学者は【ヤマト言葉】を否定し、「上代語」と言い換え、恬(テン/外のものに心を動かさず落ち着いている状態)として恥じない。然しそれは、言語学者として失格である!!


つまり、講筵の例会で使用されていた【日本紀】の下書き文書の写本伝承文書(佐々木旧蔵本・田中本・岩崎本)等、多々ある文書が、明治30年(1897年)~明治34年(1901年)に『日本書紀』(ヤマトフミ/黒板勝美・校訂)と題し、尚、他の本を合せた17冊を国史大系として経済雑誌社が刊行した本である。

その昔、隠されていた土笥(ハニハコ/カミ代文字文書に因るカミ代の時代~景行天皇迄の春日氏文書【ミカサフミ】を保存していた埴土の箱)。その50笥(箱)を小野妹子が平岡宮(枚岡ではない/神津嶽本宮=平岡表記は『先代旧事本紀大成経・72巻』本に記載/現在地は東大阪市出雲井町7番16号)から。又、秦の河勝も四国の泡(アワ)輪(ノ)宮から三輪氏文書【ホツマツタヱ】をそれぞれ「聖徳太子」(厩戸皇子)が探し出し、両名に命じてカミ代の文字で書かれた文書を持ち帰えらせた。此れを以てカミ代と先史(神武天皇~景行天皇迄/AD1世紀~AD4世紀末頃迄)の事が明るみになる。そして尚、隠されていた【6家】(吾道=アチ・物部・忌部・卜部・出雲・三輪)文書、及び中臣御食子の文書。又、推古女性天皇歴年文書等を合せ、漢字編輯に因る『先代旧事本紀大成経』(72巻本)を聖徳太子が完成させました。後年、その「72巻本」の中の「天皇紀」(帝紀)や「宮廷内物語」(旧辞?)等の文章を底本として取り込み書かれたのが【日本紀】(現在は逸書だが扶桑略記・名文抄にはカミ代の年代部分が取り込まれ保存さている)である。
… 
【日本紀】(養老四年=AD720年に元正天皇に奏上)が完成し、元正女性天皇(第44代/元明女性天皇​の譲位に因る)に奏上された翌年(AD721年)、早速、宮中で「講筵」(こうえん/講義)が行われた時、【日本紀】の下書き文書がテクスト的に用いられ、その後も【講筵】(例会)は康保2年=965年頃迄ほぼ30年に1回行われていた。つまり早い話が、現存『日本書紀』(黒板勝美・校訂)とは、逸書【日本紀】の下書き文書の編輯本である。従って、現存『日本書紀』に在るはずの系図が抜けているのである。然し、その文書の一部分は「名文抄」(続群書類従書/雑部・巻第886)として、少なくともカミ代の系図に関する暦年(鈴木暦)が、鸕鷀草葺不合尊迄で「179萬2476歳」(『神道五部書・倭姫命世記』とほぼ同じ)として保存されています。 

【古事記】(フルゴトフミ/口述の文書化)は、歴史書でないので、此処では言及致しません~


ホツマツタヱ

「落合直澄・著」(明治時代の学者)『日本古代文字孝』


  

Posted by 小島 宏 at 00:28 | Comments(1) | 【日本建国・創建史】

2024年02月03日

ノアの大洪水に起因する【オニヤライ神事】~!

今日は節分で、明日は旧暦に言う【立春=正月】です。因みに何故、「年分け」(節分)の夜に【オニヤラヰ】(鬼遣/追儺)神事が行われたのかと言えば、その翌日が【立春=正月】(旧暦の正月)だったからでした。その【オニ】に付いては年内行事の中で1番最後の行事としてホツマツタヱ文書(日本紀の底本)に記載されています。その【オニ】とは~

紀元前145年頃にエジプトに亡命したユダヤ教の大祭司オニアス4世(サドク系)が語元であった。つまり、我が国の神道は「脱・ユダヤ教」と定義するを以って設定されました。因みに、【オニ=鬼ヤライ】のルーツは『ヨベル書6・9~33』の記述内容に起因する。

◆ヨベル書(鬼ヤライのルーツ)~【大洪水阻止・天上の契約天板】の内容は、毎年の或る祭事を行うを以って「ノアとの年々契約」が自動更新とされる内容である。その「或る祭事」の日本(ヤマト)方式が、【鬼ヤライ・神事】であった~

※~ 「トシウチ(年内)に成す行事」の中で1年最後の行事として~「ヱ(倭暦の兄弟のヱの意)元の神の、分かる夜は、煎豆打ちて、オニヤラヰ、柊鰯(ヒイラギ・イワシ)は、モノ()の垣(鬼を防ぐ垣)、ホナガユズリハ(穂長=ウラジロ・譲羽)、シメ飾り」等と記されています~因みに、その【オニ】とは~

※~「あれオニ物(秘儀数価276)を破るなら、空這う児(倭天使アマカツ・数価85/276+85+文字数4=1年365日の数価)にて招き入れ」(ホツマツタヱ・12章に記載)~と記されています。

つまり、天使アマカツ(数価85+4)を招き入れろと言うことです。つまり、天界(倭語アメ=天)に於ける天使の出入り口として設定されたのが【鳥居】(閉め縄を張る)であり、それは天使等が出入りする階段(ヨロヅ=1萬値に住すGodの住処)の出入り口とする。そして、その最初の【鳥居】の設置地は、大祭司ヤオノアラヒトが住していたメソポタミア的地域を流れる山後川(ヤマト川)の近く(渋川神社付近)でした。その意味する処は、天上(アメ)に設置された【大洪水阻止の契約板】(年々契約/ヨベル書6・9~33)に関連し、新年の祭祀事を滞りなく履行する事により、Godとの年々契約は自動更新されるとする「カンナガラノミチ」教義(後に言う神道)が確立していた事を物語っています~

~その事に付いては後の代の空海は知っていました。従って【光明真言・文字】(24文字)の第23番目【ウン】の字(数価276)は、「ア・カ・ウ・マ」(倭天使と同義語)の4字合字で造語され、その合字に関連する数価の合計は「276+85+4=1年循環数価365」(節分のに関連する)として【365】に成るようにして設定しています。又、『般若心経』の文字数も「262+14=276」として設定していて、その【般若】の文言に至っては、オニ面()として表示されています~

◆【IAΩ】の語元(八尾市の語元)に始まる【日本建国創建史・発信会】~

日本の「年中行事」(1年365日の循環暦ルーツは先史エジプト文明に起因する)の最後を締め括る「シワス・オオツゴモリ」(師走・大晦)の夜の【鬼遣】(オニヤライ=節分/旧暦2月3日)神事の根元は、旧暦に於ける「新年・立春正月」を迎える為の行事として設定されました。つまりそれは、新年と旧年との間には「ウルウ年」(閏年)に関連する時間の誤差が生じ、その誤差の隙間に「終えもの」(過ぎ去った物の意/大祭司系オニアス4世に起因す脱ユダヤ教思想の元点文言)である悪鬼(紀元前145年頃のユダヤの大祭司がエジプトに亡命した史実事に起因する呼称)が侵入する事を、観念的にを防ぐ事にあった。従って、我が国の年末には「閉め縄」(〆縄)が張られるのである。

又、日本の年末に「門松」を設置する意味は、古代史(奈良時代以降)以前の先史時代(日本建国創建史時代=弥生中期~後期迄頃)の暦の設定者は、四季の春の始点値を「アセンダント」(黄道帯=太陽の道の天体が昇ってくる上昇点)的に捉え、冬と春(上昇期)の角で「立春正月」、つまり極東に於ける世界最初の新春に当る朝日が出るのを待つ意」として定義し、設定されました。
因みに、我がヤマト(日の本の意)国を世界的極東に位置すとする定義付けは、共和政ローマ時代の紀元前133年に、Pergamon(ペルガモン)王国がローマに遺贈された事に起因する。つまりそれは、Pergamon(現在のトルコ西域)から東を「アジアと呼ぶ」行政上の呼称が登場した事(ペルガモン地域より東をアジアと呼ぶ事)に起因する。

★三笠フミ「ナメコトノアヤ」(嘗事の文)~
https://gejirin.com/mikasa07.html 


アセンダント構図




  

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2024年01月30日

【日本】の語元(黎明の語意を有す語源の意ではない)~とは!

カバラ引き数価設定表
【日本】の語元(黎明の語意を有す語源の意ではない)~とは!

日本とは世界で最初の朝日が出現する地、つまり、極東の地の意が語元であった。

何故、紀元前後頃の我が国が、極東に位置す事を我が国の創建者達は知っていたのか?

それは「アスカ=飛鳥」の語元に関連します。つまり、斑鳩(イカルガ)に天降御座されたクシタマ・ホノアカリの尊は、極東列島の中でも最極東に位置すヒタチ(国床立→常陸)方面から船で移動し、浪速(大阪府)を経て斑鳩の里の白庭村に到着された。そして、情報収集の為に八咫鴉(初代・加茂健津身の子孫)が駆け回る。そしてその明日、別の地域へ遷都されました。従って「アスカ」(飛鳥=明日香)と言う。

因みに、「日ノ本」とは、世界で最初の朝日が出る地であって、それは尚、世界で最初の1日、及び、強いては新年の最初の朝日が出る地と言う意味です。

何故、我が国の位置す場所が極東に位置し、世界で最初の日の出の地と言えるのかと言えば、それはアジア(Asia)の語元に起因する。つまりそれは紀元前133年に、Pergamon(ペルガモン)王国(その昔のトロイの木馬伝説地の南側位置す国)が、ローマに遺贈された事により、初めてアジア(Asia=東)の語元に繋がる行政上の呼称が誕生した事に始まりました。

因みに、そのペルガモン王国は聖書等を作成する為の上質的獣皮紙の輸出国(クムラン秘儀教義宗団も【死海文書】作成する為に輸入していた)であった。然し、ペルガモンの国王アッタロスの息子が【太陽の国】思想を掲げ、ローマニ対し反乱を起こした。反乱軍は鎮圧されたが、当時クムラン宗団も、大祭司を追い出しユダヤ政権を担っていた下級祭祀系マカバイ一家に迫害されていて、エゼキエルの預言である【カミの顕現】(ユダヤの地を襲う大地震)を契機に、東方への移動を計画していた。従って、エゼキエルの最初の預言に当る「東方崇拝思想」を鑑み、東方探察の先発隊が東方を目指し出発する。つまり、その先発隊の中に【太陽の国】思想者も含まれていた。その人達の子孫が後に言う「鹿島氏」(武闘派の建御雷神=鹿島カミを含む)の祖であった。

そして、紀元前31年にユダヤを襲った大地震に対し、エゼキエルの預言【カミの顕現】(エゼキエル書38・19~20)と捉えたクムラン宗団トップグループは、予てから探索していた極東へ向け出発しする。その一行は、サバの女王とソロモン王の血筋を引き継ぐアクスム王国の船で紅海から、会稽(現在・浙江省の紹興市)の東に位置す極東(紀元前133年以降に定義付けられた東の果て地)から、更にその昔に徐福が上陸した地(有明海北西部)に辿り着く。そしてそこを拠点地として国家創建に向けた活動を開始しました。

因みに、我が国最初の地名設置地は、到着地(現在の佐賀県)を拠点として命名された「カシマ=鹿島」(God≒カミの大道数価365+カミとの接近数236+カシマ秘儀数価189=オノコロ数価790)と、その北側に位置す「ヰマリ=伊万里」(ヰ.Τ190+jマ.15+リ.R153=358は伊勢神宮の語元でもある)であった。何故かと言えば、そこは良質の黒曜石の産出地だったからでした。

その有明海北西部を拠点としていた鹿島氏が、常陸地域(茨城県)に移動したのは『常陸風土記』の国栖伝説。つまり、崇神天皇の時として、それは「賊=ヤサカシとヤツクシ」(伊多之郷)を平定した時としての古老曰く~佐賀=肥前の杵島唱曲(キシマフケリ)・七日七夜遊楽歌舞」等と記す、その内容に関連します。
  


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2024年01月18日

【邪馬台国】は移動していた!

◆【邪馬台国】は移動していた!

現存『日本書紀』巻頭漢字訳130字の文面(日本=ヤマト・天地開闢物語)。その「漢字訳130字」文面は、旧約聖書の創世記(カルデア語.BRASIT.ベラシト)のカバラ数価「3910」が「ミコト→.命→尊」の語元であった。そして尚、その創世記「劈頭(ヘキトウ)文面の焼き直し版、つまり、それを倭約した文面が、日本人の聖書として書かれたホツマツタヱ(秀真伝)の姉妹書ミカサフミ(三笠文6章)【高間成るアヤ】の文面である。

旧約聖書「創世記」劈頭(ヘキトウ)文~「BRAShIT」(ベラシト=始めに/Godは始めに天のものと地のものを6日で創造した/創世記の劈頭文)、BRA(ベラ)(始めに/創世記の意)、ALHIM(エロヒムは元初のGod=カミ)、ATh(アト)(始めと終りを司る主/日本
の天の御中主の語元)、HShMIM(ハシャマイム=諸天)、VATh(ブァト=完全数最初の6の意)、HARTz(ハアレツ=地)。



その三笠文の「高間成る章」に因ると~
◆「此のカミ(アメ床立=天御中主)は、ハラワタ(腸)イノチ(命)、御食お守る、ウマシアシカヒ、ヒコチカミ(可美葦芽彦舅カミ/日本書紀)。アメ(天)の御親の、なす息は、際なく動くアモト(天元)カミ、水に油の浮かむさま、巡るウツホ(空)のその中に、アメツチ(天地)届く御柱お、巡り分かるる「アワ・ウヒ」の、アワは清くてムネヲ(男)カミ。ウヒは濁りてミナメ(女)カミ。ヲ(男)は軽ろ清く、アメ(天)となり、メ(女)は重りコル(凝る)国のタマ(球)。ウヲセのムネは、日のワ(環・輪)なる、ウメ(女)のミナモト月となる、アモトアラワレ(天元顕れ)、生みて乗る、ウツロシナトに、月の水、海と称えて、日に生める、ウツホ(①空)動きて➁風となる、「カゼ・③ホ(火)」となれば、ツチ(土=埴)もまた、「ミツハニ」(④水・⑤土)となる、此の五つ(空・風・火・水・土=埴)、交わりなれるカン(カミ=上)人は、【ア・ウ・ワ】(天・中・地)現る、御中主(画像・フトマニ図の中心に配置されている)、クニタマ(国球)ヤモ(太占図の八方)に、ヨロ子生み、初にヲウミ(近江)のヱト(兄弟)の子の、ヱ(兄)御子ア(天)に継ぎ、近江タス(治す)、オト御子の住むトシタ国(弟下国)/後文略す」(高間成るアヤ・6章)。

◆現存『日本書紀』の元典【逸書・日本紀(ギ)】(養老四年=AD720年奏上本)の漢字訳者は、「ハラワタイノチ」の「イノチ」に対し【命】の字を当て美挙等(ミコト)と読ませている。そして尚、日本の国土に於ける元初のカミとする「国床立=国常立」(クニノトコタチ)を特別(尊称)視するを以て「尊」の字を当てている。それはつまり、現存『日本書紀』巻頭漢字訳130字迄の内容(日本開闢物語)自体、既に、カルデア語(アッカド語のバビロニア方言)に因るBRASIT(ベラシト=始めにとは創世記の意)文言文字に与えられた秘儀数価「3910=ミコト」(3(ミ)α'3千+9ρ'9(コ)百+10ι'十(ト)=3千9百1拾)の語元数価の範疇だった事を知っていた人物が未だ存在していた事を物語っている。従って、早速、日本紀を奏上した翌年に、ニホンギ(逸書・日本紀)の講筵(コウエン/講義)が開催されたのである。その講筵で使用された日本紀の下書き写本伝承本(佐々木旧蔵本、田中本、岩崎本等~数十種の写本)を明治時代に編輯し経済雑誌社が刊行した国史大系本の1つが現在に言う現存『日本書紀』である~

◆つまり、世襲制最初の卑弥呼が立った時代(後漢末の桓帝と霊帝の治世/AD147~189年に立つ)の邪馬台国の所在地は、九州の北西部(後に意吉野ケ里遺跡)であった。然し、最初からの念願である統一国家として成立させる必要から、極東列島の中央部(現在に言う近畿地域)に邪馬台国は移動する~それが、『魏志倭人』(三国志)に登場する二代目の卑弥呼(世襲足姫)である~。

フトマニ図


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2024年01月09日

天御中主の発祥地「伊万里」(港と同義語)!


◆伊万里市立山代西小学校へ入学(昭和29)した最初の月曜日の朝礼(週一の定例)の時、校歌の作者(蚕の研究者)と作曲者(佐賀の鳥栖出身/作曲と音楽教育に生涯をささげた人)の説明がありました。そしてその時の校長の説明によると、我が国で有名な作詞者であり作曲者である事を知りました~

【校歌】
佐賀県伊万里市立「山代西小学校・校歌」
作詞 吉富 長輔・ 作曲 陶山 聡
(一)伊万里の海の 朝風に  心も清く はればれと
   昇る朝日を あおぐとき  我等の胸に 力みつ
   いざやきたえん 身と心  強く正しく すこやかに
(二) 国見の峰の 山なみに  文化の光 照り映えて
    里の恵みは とこしえに  我等の望み 育てゆく
    いざや学ばん 手をとりて  誠の道を ひたすらに
(三) 佐代の流れに 影うつす  緑も深き 丘の上
    平和の鐘は こだまして  我等のむつみ 花と咲く
    いざや進まん 新生の  国の栄えを 築くまで

◆初めて知った小学1年の時の最初の朝礼(月曜)で歌われた校歌。その3番歌詞「我等のむつみ花と咲く、いざや進まん新生の、国の栄えを築くまで」(作詞者…吉富 長輔氏は柞蠶=ヤマ繭蛾科の昆虫研究者.)。その語意を忘れず今年(2023年12月)で69年目に当ります。

小学1年時(昭和29=1954)の不思議な体験(啓示~自分にしか出来ない事がある)で思った事は、「言葉の始まりを知りたい」(木の語元が知りたかった)と言う事だった。それは「雲を掴むような話」(40歳頃)だと知人に 一笑されたが、今年の年末迄(76歳)に研究結果を纏めた文書を完成(文字10ポイント/A412枚・図表6枚以上)させました。

山代西小学校歌の歌詞の作者「吉富 長輔氏」(柞蚕研究科)に関連する、その「絹」(蚕)の発祥伝説である西王母(崑崙山在西湖・西王母/魏略.白玉山有西王母)を祖とする人物が、我が日本の国の創建に関わっていた事も解明しました。その西王母の子孫が神格化された呼称が「白山姫」(加賀の国・一ノ宮の主祭神)でした~


ヘロデ王の第七年(紀元前31年)に発生した大地震を「カミの顕現」(エゼキエル書38・18~19)と捉えたクムラン秘儀教義宗団(1947年にクムラン洞窟から発見された【死海文書】を書き残していた宗団)のトップグループの人達は、エゼキエルの預言(エゼキエル書43・2)に従い、予てから東方への移動ルートを見付けていた紅海から、会稽(呉国)を経て、その昔に徐福が上陸した地(有明海北西部)に、紀元前一世紀の終わり頃に辿り着いた。その極島地(日本列島)への移動を受け持っていたのが後に言う「マツウラ」(海路の王である松の君が語元/魏志倭人伝に記す末廬国の祖であり後の住吉氏族の祖)である。そして、辿り着いた地の北側に位置す海の津に対し、極島の地から西域(紀元前当時の地中海沿岸文化圏)へ向けた海路からの始点値(幻の西暦1年目の始点年と同義語)とするを以て【ゐまり】(ゐまり≒メシアが来る/ミナト・37×10≒天御中主数価と同義)と命名し、沖縄からの海路とは別に、西域に向けた海路としての開発を行った。つまり、ヤマト(日本)と現在に言う中国との海路の開発者は、我が国の「松の君」(頭の3コブ、松の君、背一丈五尺、八十力、勇み激しく~)の祖先であった~

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伊万里市立「山代西小学校」校歌~
  


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2024年01月02日

日本は始めから「文字が在った事」は古語拾遺に書かれている!

★日本全国の度肝を抜くなら~【いまりで、決まり】!

日本の夜明け(建国始点年)は、我が国最初に造語された地名【ゐまり】(IBASILH=イェバ・シローの語元数価358/創世記49・9~10カバラ数価が伊万里市の語元となる)に始まりました。

それは、紀元前1年(庚申)に極東列島に辿り着いた建国創建者(サドク系大祭司)が良質の黒曜石の産地を「ゐまり」(ミナトと同義語)と命名し、世界に向けた表玄関港(松浦郡の語元に起因する)と位置付けたからでした。その港を開いた人物はハテツミ(海神ワダツミは住吉氏族の祖)です。その人に仕えていた與止姫(肥前風土記逸文)が佐賀県の語元となった賢姫です。そしてその王の娘が豊玉姫(神武天皇の父方の祖母/母方の伯母)であり、伝説上の山幸彦(彦火火出見尊の后)の后でした~

何故、正月(元旦)に対し、年賀状に「オメデトウ」(芽出タイ)と書かれるのかと言えば、それはその昔の旧暦正月の名残です。つまり、旧暦正月は立春正月(現在の2月4日頃)であり、植物の芽が出る季節が巡って来た事を示唆する文言だからでした。

又、何故、正月前の大晦日(オオツゴモリ)に角松が設置されるのかと言えば、それは1年循環に於ける四季の動きを、当時の暦の設定者は四角形図的(アセンダント=太陽の道の天体が昇ってくる上昇点)に考えていたからです。従って、冬の終りの角(翌日は立春の元旦に当る)で、立春正月を「始めと終り」の角で待つ(角の松)と言う事を示唆した物体として暦の設定者が設置した事に始まりました(年中行事として設定された)~


又、我が国では年末に「シメナワ」(閉め縄)を張る意味は、それは「新年365日」と「旧年365」との間に、少し時間の誤差(閏年に関連する)が生じます。それで、その隙間を「閉め引き塞ぐ」事で、その隙間から旧年の終えものが入らないように閉め引き塞ぐと定義し、設定されました。

★「あれ鬼モノお破るなら、空這う児(倭天使)にて招き入れ、閉め引き渡しミソギなせ、鬼カミ縛る器物(閉め縄の意)」!!



『古語拾遺』(齋部廣成・著)には【神代文字】(ホツマツタヱ7章に記載在り)文書にしか記載が無い部分、つまり、天照大御神が磐戸(岩戸)から出現した時の様子を漢字で記述しています。仮名に直せば~「アハレ、アナオモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、オケ、サヤケ~」(後文略す)。つまり、齋部廣成が言ったとする文言(前文略す)「上古の世、未だ文字有らざるとき、貴賤老少、口々に相伝へ、前言往行、存して忘れず」(後文略す)の語意は、ヤマト国家創建に着手した当時(AD1世初頭)は未だ漢字が無かったと言う意味です。つまり、ヤマトの国の創建者達は極東への移動(紀元前1年/王莽が政権を簒奪した頃)以前、既に作成済の象形文字(物部文字&ホツマ文字等)を持っていました。それで、神代文字文書にしか記載が無い文面を漢字で~「阿波礼・阿那於茂志呂・阿那多能志・阿那佐夜憩・飫憩」(アハレ ・アナオモシロ ・アナタノシ ・アナサヤケ ・オケ/後文略す)と記していたのでありました。従って、その後年に於いて、その語意を肯定する文書を忌部政通(インベマサミチは齋部廣成の子孫)は【神代巻口訣】文書を用い~「神代文字は象形也」と言い、推古天皇の御代に至り聖徳太子が古来からの象形文字(ホツマ文字)に漢字を当てた(『先代旧事本紀大成経72巻本の完成/その後、その文書の中の旧事等を抜き出すを以て『日本書紀』の底本と成る)等と記しています。

因みに「天照オン神」のルーツは、聖書地名で古代エジブトの【太陽の町】ヘーリオポリスに祀られた【ONカミ】(Godエロヒムの御魂の別称/ギリシア神話ではヘリオス=太陽光線の意)でした。又、その数価(ONの御魂数価300+倭語カミ数価58=358)は、創世記の最初の預言文言のカルデア語(アラム語)「イエバシロー」(日本語訳~シロが来るであろう/創世記49・9~10)。更に要約すれば「メシアが来るであろう」と言うフレーズ文字(IBASILH/イエバシロー)数価【358】と同義語となります。

そして【天照オン神】の大祭祀者(サドク系)アラヒトは、その数価【358】を用い、我が国のヤマト言葉に因る最初の地名【ゐまり】(良質の黒曜石の産出地/伊万里市の語元)を造語し、その港は世界史に於ける日本列島の表玄関として設定し、その港を足場に、クムラン秘儀宗団トップグループの極島移動(紀元前31年にユダヤ国で大地震が発生した事に起因する)を担ったサマリア系【海の民】(紅海一帯の交易国・サバの女王系アクスム王国の人)を祖とする海兵隊(海人・松の君は背一丈五尺・八十力集団の主/佐賀・松浦郡の語元)の船で、列島周囲の島を拠点として本島に分け入り、極東列島の地図(大八州=臀呫の蜻蛉島/①淡路・➁伊予.阿波・③ツクシ=九州全体・④隠岐.佐渡・⑤越・⑥大州(オオシマ)?・⑦吉備・⑧対馬.壱岐)を、大祭司アラヒトが命じ作成させました~

つまり伊万里の語元は、聖書地名地ヘーリオポリス(太陽の町)に祀られていたユダヤ民族のGodの別称「ONカミ」(天照オン神の語元)の秘儀数価であり、又、創世記最初の預言文言(創世記49・9~10/IBAΣΛH=イエバシロー)の秘儀数価【358】が【伊万里】(ゐτ.190+まε.15+りρ.15=358)の語元数価でした。 

伊万里神社
  


Posted by 小島 宏 at 19:25 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】