2024年03月20日

日本語「ハル.ナツ.アキ.フユ」(春夏秋冬)の造語者は大祭司【ΙΑΩ=八尾のアラヒト】!

◆「IAΩ=ヤオ」(1947年発見の死海文書の断片文字が初出/八尾市の語元文字)の語元に始まる【日本建国・創建史】!!

◆「IAΩ=ヤオ」(1947年発見の死海文書の断片文字が初出/八尾市の語元文字)の語元に始まる【日本建国・創建史】!!
日本語の季節文言~「ハ3+ル12+ナ4+ツ11+ア1+キ7+フ13+ユ14/計65」(春夏秋冬/アドナイ・メシア=ADNI数価65)を造語したのは、大祭司【ヤオのアラヒト」でした。

今日、閏年2024年(令和6年)3月20日水曜は【春分の日】(秋分から春分迄は約197日目で次の秋分迄は約186日目で1年365日となるが今年は閏年なので187日目にあたる)。その、1年循環法則(年中行事の設定)が我が【日本建国創建思想】(AD1世紀~4世紀頃迄の時代の物語)の根元であった~

つまり、秋分から春分迄は約「179日」。その【数価179】を語元として我が国の季節呼称「アキ=秋」が造語されました。その「アキ」の造語の経緯は神代の時として、ホノアカリテル彦(瓊瓊杵尊の兄)が東北のクニトコタチの国(現在の茨城県地域)から奈良の斑鳩の里に天降御座するに先立って、ミコトノリ(詔)が発せられた~
★マウラ(占い者)お召して、ウラ(占い)問えば、マウラフトマニ(真占太占)、アキニ(秘儀数価179は春分の日を示唆する文言)取る、今春(春分の日)なれば、西の空、民疲れ無し、ヨシ(秘儀数価186は春分から秋分の日迄の数価)良しと、ミコト(ミコトノリ・詔)定まる(179+186=1年循環法則数価365/ホツマツタヱ・20章)~

つまり、それが我が国の建国思想(ホツマ=ヤマトとは世界で最初の1日&1年の朝日が昇る地域の意)文言であった。それを要約した文言が~
★卅有一年(西暦31年はイエスキリストが十字架刑に処された年に当る)夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉(トンボがツガル形状/二つの物が一組みになる意)」由是、始有秋津洲之號(ヤマトの国号)也。従って~「昔、伊弉諾尊目曰、此国曰、日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国(袍図莽句爾=ホツマクニとはヤマトクニと同義語)」~と『日本書紀』の神武天皇31年条に記載されています。

因みにみ、その筋書きを創ったのは、現在の八尾市竹淵(タコチ)地域を居住地としていた大祭司「ヤオ(ΙΑΩ)のアラヒト」(世襲呼称)でした~
…~「ハ3+ル12+ナ4+ツ11+ア1+キ7+フ13+ユ14/計65」(春夏秋冬/アドナイ・メシア=ADNI数価65)を造語したのは、大祭司【ΙΑΩ=八尾のアラヒト」でした。

今日、閏年2024年(令和6年)3月20日水曜は【春分の日】(秋分から春分迄は約197日目で次の秋分迄は約186日目で1年365日となるが今年は閏年なので187日目にあたる)。その、1年循環法則(年中行事の設定)が我が【日本建国創建思想】(AD1世紀~4世紀頃迄の時代の物語)の根元であった~

秋分から春分迄は約「179日」。その【数価179】を語元として我が国の季節呼称「アキ=秋」が造語されました。その「アキ」の造語の経緯は神代の時として、ホノアカリテル彦(瓊瓊杵尊の兄)が東北のクニトコタチの国(現在の茨城県地域)から奈良の斑鳩の里に天降御座するに先立って、ミコトノリ(詔)が発せられた~

★マウラ(占い者)お召して、ウラ(占い)問えば、マウラフトマニ(真占太占)、アキニ(秘儀数価179は春分の日を示唆する文言)取る、今春(春分の日)なれば、西の空、民疲れ無し、ヨシ(E15+Σ171=186/秘儀数価186は春分から秋分の日迄の数価)、良しと、ミコト(ミコトノリ・詔)定まる(179+186=1年循環法則数価365/ホツマツタヱ・20章)~

つまり、それが我がホツマ=ヤマ国の【建国思想】(ホツマ=ヤマトとは世界で最初の1日&1年の朝日が昇る地域の意)文言であった。その文言れを★要約した文言が~

★卅有一年(西暦31年はイエスキリストが十字架刑に処された年)夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣」。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉(トンボがツガル形状/二つの物が一組みになる意)」由是、始有秋津洲之號(ヤマトの国号)也。従って~「昔、伊弉諾尊目曰、此国曰、日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国(袍図莽句爾=ホツマクニとはヤマトクニと同義語)」~と、『日本書紀』の神武天皇31年条に記載されています。

因みにみ、そのカミ代の筋書きを創ったのは、現在の八尾市竹淵(タコチ)地域を居住地としていた大祭司「ヤオ(ΙΑΩ)のアラヒト」(世襲呼称)でした~

タコチ(竹淵)神社
  


Posted by 小島 宏 at 05:55 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2024年03月14日

「日本国家・創建年」は【荒神谷遺跡】(銅剣358本出土)に関連する!

【伊万里神社】

【追記】~★日本人の聖書として書かれた『秀真伝』(逸書「日本紀」⇨現存『日本書紀』の底本)!!

現存『日本書紀』巻頭文の日本開闢物語(劈頭=ヘキトウ聖句の漢字130字文言)は、『旧約聖書』創世記の劈頭聖句(モーセ五書・創世記の劈頭文言)の焼き直し版である。その証拠は「ミコト」の語元(創世記のアッカド語BRASIT⇨ベラシト秘儀数価3910⇨ミコト・命=尊)です。つまり早い話が、日本語訳としての秀眞伝(ホツマツタヱ)の姉妹書とされる三笠文(ミカサフミ)、その「タカマ成るアヤ」(6章)の文面の編集文言と考えられます。

ミコトの語元ルーツは、旧約聖書の創世記(BRASIT=ベラシトとは始めに~の意)のアッカド語BRASIT数価3910(ミコト・命・尊)であり、それを倭語(ヤマト言葉)に変換するに当たっては「ミコ39×ト10=390」として、それはユダヤ民族の罪咎に対する悔い改め期間年数(エゼキエル書4・4~5)である。その証拠と成るのが加茂岩倉遺跡(島根県※雲南市)出土の「銅鐸39個」。又、その近くの荒神谷遺跡(島根県出雲市)出土の「銅剣358本」です。つまり、その数価「39」と「358」が意味する処は、創世記49・9~10に記す~「イェバ・シロー文言フレーズ数価358」(メシアが来るであろうの意)と言う最初の預言であり、又、「39」は、ヤマト国家の創建に関連します~

その銅鐸39個と銅剣358本が埋められた事を記す文言がホツマツタヱ(ホツマ34章・60年条)に記載されています。因みに、その始まりは~孝霊天皇から賜った「玉川・カン宝フミ」(武田の祖タケトメ=ハラオ君瓊瓊杵尊の子でホノアカリ。その長男で梅ヒト(三男が山幸彦ホホデミ尊)の長男ニギハヤヒ国照の弟タケヒテルが出雲の国に納めた文書に関連する(ホツマ32章参照の事)。

★五七調歌~「八雲立つ、出雲健(タケル)が、ハケル(佩ける)太刀、ツヅラ(葛籠)サワ(沢山)巻き、憐れサヒ(眞刀)無し」(ホツマ34章60年条)。 
★「タマモ(魂も)シツ(鎮)、出雲マツラハ、マクサマシ、カヨ代オシフリ、ネミカガミ(寝身・鏡/景初三年銘入・三角縁神獣鏡)、ミソコ(39)宝の、ミカラヌシ(身空主)、谷身括り身(荒神谷遺跡出土の銅剣358本は括られていた/島根県出雲市斐川町神庭から出土)、タマシツカ(魂静か)、ウマシ御カミは、ミカラヌシ(身空主)ヤモ」。
※卑弥呼の鏡とされる【三角縁神獣鏡】(景初三年銘入鏡)も、銅鐸が一括して39個出土した島根県雲南市「神原神社古墳」から出土している。

因みに現存『日本書紀』の崇神天皇60年条の漢字訳は、意味が通っていません(チンプンカンプン)~

「ミソコ(39)宝」の数価【39】の出自は、古典期ギリシア27文字配列順数価を用いた「ミK11+ソΔ4+コΧ24=39」文言数価である。つまり、それを創世記のアッカド語(アラム語は紀元前アッシリア&新バビロニア王国の公用語)による文言BRASIT(ベラシト)の秘儀数価「3910」(ミコトの語元ルーツ)に関連付けるを以って、エゼキエルが定めた罪咎に対する悔い改め期間年数価390」(エゼキエル書4・4~5)を示唆すると共に、ミコト(39×10=390)の語元と定義し、設定しました。

その解読に至ったのは、1948年4月12日付ロンドンタイムス紙の二十世紀最大の考古学的発見(羊皮紙巻物=死海文書)と言うニュースによって、それ迄は歴史の闇に閉ざされていたクムラン秘儀教義宗団(ダマスコ契約宗団はエゼキエルが定めた悔い改め390年を全うした宗団であった)の存在が初めてあかるみと成った事に起因します。つまり、クムラン集会所遺跡の発掘調査率いたフランスの考古学者でカトリック教会の神父でもあるロラン・ドゥ・ヴォー氏によると、紀元前31年にクムラン地域をも襲った大地震で集会所も破壊された。そしてそれ以後、その秘儀教義宗団の行方は不明とされています~【追記】以上~





【ヤマト言葉】(国語)の始まりは、伊万里の語元数価358に起因する。そしてその秘儀数価【358】は、「日本国家・創建年」に関連する【荒神谷遺跡】から出土した「銅剣358本」にも関連する!

今日は「2024年2月11日・建国記念日」。その 神武天皇の即位元年を紀元前「660年」とするのは間違っています。つまり、国家としての実質的成立年は「幻の西暦351年」に当る崇神天皇12年条(日本書紀)に記すミコトノリ(詔)。即ち~「肇(ハツ)国知らすミマキ(崇神天皇)の代」と発せられた文言に起因します。

その詔の年を以って新たにヤマトの歴年史は再設定されました。その再設定方式は、【太神宮諸雑事記第一】に記す雄略天皇21年(AD477年=伊勢皇大神宮建立年)から484年過去に遡った紀元前7年の時と記すが、その原点は崇神天皇12年(AD351年)から過去に伊万里の語元数価年「358」(創世記49・9~10・メシア=シロが来る意の文言数価/ゐ.T190+ま.E15+り.R153=358)遡った紀元前7の時として設定された「長髄彦討伐6年戦争」(神武東征はハルマゲドンの模倣戦)完了後に当たる「幻の西暦1年目・辛酉」(ヘロデ王の第7年=ユダヤ大地震発生年から31年目)が、本当の日本の建国元年に当ります。

因みに、その「660」と言うのは、苦戦を強いられ八尾の竹淵(タコチ)地域にタケヒト(神武の幼名)皇軍が陣を退き(八尾市史・竹淵神社縁起参照)、作戦を変更した紀元前3年から「660年後」(垂仁天皇26=紀・在位通歴657年)に、伊勢神宮が建立されたとする数価年に当ります!!
  

Posted by 小島 宏 at 05:08 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】