2024年07月26日

神輿(ミコシ)のルーツはユダヤの移動式【契約の箱】!

神輿(ミコシ)の語元は峰越。それは、ココリ姫(菊理姫)が住む白山峰を越す乗り物(峰越)であり、その乗り物は、白山姫の孫アチハセが造ったと記す(ホツマ24章)。

つまり~越えのネの国(ココリ姫=白山姫の国)、アチハセ(白山姫の孫)が、峰越(斜めにならず/前後の担ぎ棒の高さを変えていたと考えられる)ささぐ~と記されています。然し、そのルーツは、古代イスラエルの契約の箱(移動祭祀所=幕屋の中に置かれる小さな木造の至聖所)に起因する。

ホツマ15章)~ココリ姫(菊理姫)、語れる事は、床立の、八方お巡りて、西の国、黒祖の罪テ、カに当る、名もアカガタ(赤縣神州・神仙の住む崑崙の地&金沙江付近~/崑崙山に発す長江上流地)の、トヨクン(豊君)ヌ、世々治むれど、年を経て、道尽きぬるお、ウケステメ(受棄姫=西王母)、根の国(北陸)に来て、タマキネ(玉杵)に、良く仕ふれば、身にこたえ、ココリ(白山姫)のイモ(妹)と、結ばせて、山のミチノク(道の奥/北陸地域?)、授けます。喜び帰る ★ウケステメ(西王母)、コロヒン(崑崙)君と、チナミあい、黒祖の積もる、御子生みて、西の母カミ(ウケステメ=西王母)、また来たり。

★~「ウケステメ」(受棄姫=西王母)とは紀元前500年頃の事として(竹簡書/穆天子伝)、穆(ボク)王が西に巡狩して崑崙に遊び、西王母に会って帰るのを忘れたと言う事が記されている。そして、そのホツマ時代(1世紀中頃~4世紀終り頃/仁徳天皇時代頃迄)の我が国には◆「蚕の絹」の織物が生産されていました。

◆~「蚕の絹」とは、白山姫は、産湯なす、カヒコ桑に、引く糸お、ナツメが織りて、ウブ絹の、ミハ(御衣)奉る(ホツマ4章)。 


何故、物部氏族(斑鳩に天降御座された天忍穗耳の子孫)が斑鳩(奈良県)から八尾(死海文書の断片文字・ΙΑΩが八尾の語元)へ移り、その地を居住地としたかと言えば、天忍穗耳の部下だった長髄彦(謀反を企てた)の討伐を、筑紫(九州)の宮崎を統治していたタケヒト(神武の幼名)に命じたのは八尾を居住地としていた大祭司AL(アラ)ヒトだったからだった。つまり、その後の政権をタケヒト(後に言う神武天皇)に譲ったからである。そしてその後のアラヒトは丹後方面(大江山の鬼退治伝説に関連す)に移住しました。

神輿(ミコシ)のルーツはユダヤの移動式【契約の箱】!



Posted by 小島 宏 at 05:52 | Comments(0) | 徐福の上陸地
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