2024年06月27日
イェルサレム第3神殿として建立された【伊勢神宮】!
★【追記】~何故「雄略天皇21年」(幻の西暦477年=ユダヤ創世記暦4418年)を伊勢皇大神宮(内宮)の建立年と定義し、設定されたのか。つまりそれは、西暦1年.辛酉(神武天皇即位元年に始まる皇暦1年=創世記暦3941年+AD477年=4418-180=創世記暦4238年がユダヤ暦)よりユダヤ暦は180年少なかった。それで、先ず『ホツマツタヱ』(日本人の聖書に当る)文書を用い、皇暦年(天鈴暦は790年で終焉)を暫定的に設定するを以て、その誤差の180年を解消(景行天皇即位元年はエルサレム第二神殿陥落の翌年に当る幻の西暦71年)させました。そして、景行天皇崩御後の文書(成務天皇~仁徳天皇時頃迄)は、武内宿禰(ホツマ28章/或る文お、代々に伝ふる、武内は、遂に永らふ、道となるかな)に委ねられた事によって、雄略天皇21年、即ち「AD477年+180=皇暦657年は垂仁天皇26年」(垂仁26年は伊勢神宮建立年としてホツマに記載済み)の時として、皇大神宮の禰宜(ネギ/宮司の補佐)だった荒木田氏一族の手で文書が書き残され、それが『太神宮諸雑事記第一』として現在に残されています!
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★~伊勢神宮の建立年に付いては、我が国最古の歴史書とされる『日本書紀』を始めとして、どの歴史書にも全く、記載されていません。然し、伊勢神宮の境内には伊勢神宮の建立年の事が記された掲示板が設置されています。つまりそれは、皇大神宮(内宮)禰宜の荒木田一族の手で書き継がれ、平安末期迄の主要事項を編年体で記された文書として、その最初に当る【太神宮諸雑事記・第一】に記載(紀元前7年に当る長髄彦討伐開始年から「484」年目の雄略天皇21年の時とする)されています。尚、景行天皇の即位年は、イェルサレム第2神殿陥落の翌年に当る「AD71年」(景行天皇28年は唐の章和帝12年/正確には後漢の和帝章和元年=AD87年+和帝12年=AD満97年-景行28=AD71年と成る)として設定されています。因みに、数価「484」とは、ヘブル文字22×22=484に当り、その数価はカバラのゲマトリア教義では最も重要な数価とされています。
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神社の置き千木の形状は、ギリシアのイオニア式文字配列第22番目(χi)の「χ」(数価千を言い表す文字/単位キロの語元文字)が元形でした。その意味する処は「完成」(千は10の3乗で完璧さの極致の意)。つまり、我がヤマトの国とは完成された国として創建されました。因みに、古来の民家等の屋根には屋根が風に飛ばされないよう押さえている長い木製形状をチギと言うのは間違いです。つまり、倭語チギ(漢字は千木)としての定義付けは民家ではなく、ムロヤ(高床の倉庫様式)の屋根にχi文字形状を単体で設置するを以て、初めて「チギ=千木」と称し、その全体的構造(建物の中は空洞とする)に対し、ヤシロ(社)と定義付けられました。そしてその命名者は初代大物主(クシキネ=事代主)として秀真伝(21章・室屋造りて民を生む、後ヤ手結びヤシロ成る~)に記述されています。
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では何故、倭語で「チギ」と命名されたかと言えば、それは【死海文書】(1947年にクムラン洞穴から発見)に書かれていた文言に起因します。つまりそれは、紀元前に聖書を写本するに当たりGodヤハウェの御名の部分は後でヘブル文字(YHVHの角文字)を記入する為、空白的に開けていて、その代わりに角文字に似たギリシア文字の「π・i」(後年の訳者は間違ってピィ・ピィと発音していた)の字を仮に当てていました。そのギリシア文字「π」に当る第16番目の字配列に対し我が国で造語するにあっては、母音アイウエオ(ギリシアの母音アエイオウの並べかえ)に対し、数秘術(ゲマトリア)を駆使する必要から、ホツマ文字を【ア・ワ】(天・地)の歌(アカハナマ~)の順に並べ変えれば、その第16番目に倭語「チ」に当ります。従って、その文字の呼称である倭語「チ」に対し倭語数価1000=千を意味表す文字として設定し、「チギ」と言う単語として造語されたのでした!
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因みに、伊勢神宮様式の千木の形状は見て字の如く、それはホツマ文字の【チ】(冂字形+アルファベットY字形)の形状文字と、【キ】(冂+アルファベットI字形)形状文字との合字を用いての造語(単語)であり、従って、その字の如く「チ(π)キ(木)」と呼ばれています。又、別称としては「角刺千木」とも称されている。
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★~伊勢神宮の建立年に付いては、我が国最古の歴史書とされる『日本書紀』を始めとして、どの歴史書にも全く、記載されていません。然し、伊勢神宮の境内には伊勢神宮の建立年の事が記された掲示板が設置されています。つまりそれは、皇大神宮(内宮)禰宜の荒木田一族の手で書き継がれ、平安末期迄の主要事項を編年体で記された文書として、その最初に当る【太神宮諸雑事記・第一】に記載(紀元前7年に当る長髄彦討伐開始年から「484」年目の雄略天皇21年の時とする)されています。尚、景行天皇の即位年は、イェルサレム第2神殿陥落の翌年に当る「AD71年」(景行天皇28年は唐の章和帝12年/正確には後漢の和帝章和元年=AD87年+和帝12年=AD満97年-景行28=AD71年と成る)として設定されています。因みに、数価「484」とは、ヘブル文字22×22=484に当り、その数価はカバラのゲマトリア教義では最も重要な数価とされています。
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神社の置き千木の形状は、ギリシアのイオニア式文字配列第22番目(χi)の「χ」(数価千を言い表す文字/単位キロの語元文字)が元形でした。その意味する処は「完成」(千は10の3乗で完璧さの極致の意)。つまり、我がヤマトの国とは完成された国として創建されました。因みに、古来の民家等の屋根には屋根が風に飛ばされないよう押さえている長い木製形状をチギと言うのは間違いです。つまり、倭語チギ(漢字は千木)としての定義付けは民家ではなく、ムロヤ(高床の倉庫様式)の屋根にχi文字形状を単体で設置するを以て、初めて「チギ=千木」と称し、その全体的構造(建物の中は空洞とする)に対し、ヤシロ(社)と定義付けられました。そしてその命名者は初代大物主(クシキネ=事代主)として秀真伝(21章・室屋造りて民を生む、後ヤ手結びヤシロ成る~)に記述されています。
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では何故、倭語で「チギ」と命名されたかと言えば、それは【死海文書】(1947年にクムラン洞穴から発見)に書かれていた文言に起因します。つまりそれは、紀元前に聖書を写本するに当たりGodヤハウェの御名の部分は後でヘブル文字(YHVHの角文字)を記入する為、空白的に開けていて、その代わりに角文字に似たギリシア文字の「π・i」(後年の訳者は間違ってピィ・ピィと発音していた)の字を仮に当てていました。そのギリシア文字「π」に当る第16番目の字配列に対し我が国で造語するにあっては、母音アイウエオ(ギリシアの母音アエイオウの並べかえ)に対し、数秘術(ゲマトリア)を駆使する必要から、ホツマ文字を【ア・ワ】(天・地)の歌(アカハナマ~)の順に並べ変えれば、その第16番目に倭語「チ」に当ります。従って、その文字の呼称である倭語「チ」に対し倭語数価1000=千を意味表す文字として設定し、「チギ」と言う単語として造語されたのでした!
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因みに、伊勢神宮様式の千木の形状は見て字の如く、それはホツマ文字の【チ】(冂字形+アルファベットY字形)の形状文字と、【キ】(冂+アルファベットI字形)形状文字との合字を用いての造語(単語)であり、従って、その字の如く「チ(π)キ(木)」と呼ばれています。又、別称としては「角刺千木」とも称されている。
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Posted by 小島 宏 at 10:12 | Comments(0) | 伊勢神宮「建立年・設定方式」
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