2024年01月18日

【邪馬台国】は移動していた!

◆【邪馬台国】は移動していた!

現存『日本書紀』巻頭漢字訳130字の文面(日本=ヤマト・天地開闢物語)。その「漢字訳130字」文面は、旧約聖書の創世記(カルデア語.BRASIT.ベラシト)のカバラ数価「3910」が「ミコト→.命→尊」の語元であった。そして尚、その創世記「劈頭(ヘキトウ)文面の焼き直し版、つまり、それを倭約した文面が、日本人の聖書として書かれたホツマツタヱ(秀真伝)の姉妹書ミカサフミ(三笠文6章)【高間成るアヤ】の文面である。

旧約聖書「創世記」劈頭(ヘキトウ)文~「BRAShIT」(ベラシト=始めに/Godは始めに天のものと地のものを6日で創造した/創世記の劈頭文)、BRA(ベラ)(始めに/創世記の意)、ALHIM(エロヒムは元初のGod=カミ)、ATh(アト)(始めと終りを司る主/日本
の天の御中主の語元)、HShMIM(ハシャマイム=諸天)、VATh(ブァト=完全数最初の6の意)、HARTz(ハアレツ=地)。



その三笠文の「高間成る章」に因ると~
◆「此のカミ(アメ床立=天御中主)は、ハラワタ(腸)イノチ(命)、御食お守る、ウマシアシカヒ、ヒコチカミ(可美葦芽彦舅カミ/日本書紀)。アメ(天)の御親の、なす息は、際なく動くアモト(天元)カミ、水に油の浮かむさま、巡るウツホ(空)のその中に、アメツチ(天地)届く御柱お、巡り分かるる「アワ・ウヒ」の、アワは清くてムネヲ(男)カミ。ウヒは濁りてミナメ(女)カミ。ヲ(男)は軽ろ清く、アメ(天)となり、メ(女)は重りコル(凝る)国のタマ(球)。ウヲセのムネは、日のワ(環・輪)なる、ウメ(女)のミナモト月となる、アモトアラワレ(天元顕れ)、生みて乗る、ウツロシナトに、月の水、海と称えて、日に生める、ウツホ(①空)動きて➁風となる、「カゼ・③ホ(火)」となれば、ツチ(土=埴)もまた、「ミツハニ」(④水・⑤土)となる、此の五つ(空・風・火・水・土=埴)、交わりなれるカン(カミ=上)人は、【ア・ウ・ワ】(天・中・地)現る、御中主(画像・フトマニ図の中心に配置されている)、クニタマ(国球)ヤモ(太占図の八方)に、ヨロ子生み、初にヲウミ(近江)のヱト(兄弟)の子の、ヱ(兄)御子ア(天)に継ぎ、近江タス(治す)、オト御子の住むトシタ国(弟下国)/後文略す」(高間成るアヤ・6章)。

◆現存『日本書紀』の元典【逸書・日本紀(ギ)】(養老四年=AD720年奏上本)の漢字訳者は、「ハラワタイノチ」の「イノチ」に対し【命】の字を当て美挙等(ミコト)と読ませている。そして尚、日本の国土に於ける元初のカミとする「国床立=国常立」(クニノトコタチ)を特別(尊称)視するを以て「尊」の字を当てている。それはつまり、現存『日本書紀』巻頭漢字訳130字迄の内容(日本開闢物語)自体、既に、カルデア語(アッカド語のバビロニア方言)に因るBRASIT(ベラシト=始めにとは創世記の意)文言文字に与えられた秘儀数価「3910=ミコト」(3(ミ)α'3千+9ρ'9(コ)百+10ι'十(ト)=3千9百1拾)の語元数価の範疇だった事を知っていた人物が未だ存在していた事を物語っている。従って、早速、日本紀を奏上した翌年に、ニホンギ(逸書・日本紀)の講筵(コウエン/講義)が開催されたのである。その講筵で使用された日本紀の下書き写本伝承本(佐々木旧蔵本、田中本、岩崎本等~数十種の写本)を明治時代に編輯し経済雑誌社が刊行した国史大系本の1つが現在に言う現存『日本書紀』である~

◆つまり、世襲制最初の卑弥呼が立った時代(後漢末の桓帝と霊帝の治世/AD147~189年に立つ)の邪馬台国の所在地は、九州の北西部(後に意吉野ケ里遺跡)であった。然し、最初からの念願である統一国家として成立させる必要から、極東列島の中央部(現在に言う近畿地域)に邪馬台国は移動する~それが、『魏志倭人』(三国志)に登場する二代目の卑弥呼(世襲足姫)である~。

フトマニ図


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2024年01月09日

天御中主の発祥地「伊万里」(港と同義語)!


◆伊万里市立山代西小学校へ入学(昭和29)した最初の月曜日の朝礼(週一の定例)の時、校歌の作者(蚕の研究者)と作曲者(佐賀の鳥栖出身/作曲と音楽教育に生涯をささげた人)の説明がありました。そしてその時の校長の説明によると、我が国で有名な作詞者であり作曲者である事を知りました~

【校歌】
佐賀県伊万里市立「山代西小学校・校歌」
作詞 吉富 長輔・ 作曲 陶山 聡
(一)伊万里の海の 朝風に  心も清く はればれと
   昇る朝日を あおぐとき  我等の胸に 力みつ
   いざやきたえん 身と心  強く正しく すこやかに
(二) 国見の峰の 山なみに  文化の光 照り映えて
    里の恵みは とこしえに  我等の望み 育てゆく
    いざや学ばん 手をとりて  誠の道を ひたすらに
(三) 佐代の流れに 影うつす  緑も深き 丘の上
    平和の鐘は こだまして  我等のむつみ 花と咲く
    いざや進まん 新生の  国の栄えを 築くまで

◆初めて知った小学1年の時の最初の朝礼(月曜)で歌われた校歌。その3番歌詞「我等のむつみ花と咲く、いざや進まん新生の、国の栄えを築くまで」(作詞者…吉富 長輔氏は柞蠶=ヤマ繭蛾科の昆虫研究者.)。その語意を忘れず今年(2023年12月)で69年目に当ります。

小学1年時(昭和29=1954)の不思議な体験(啓示~自分にしか出来ない事がある)で思った事は、「言葉の始まりを知りたい」(木の語元が知りたかった)と言う事だった。それは「雲を掴むような話」(40歳頃)だと知人に 一笑されたが、今年の年末迄(76歳)に研究結果を纏めた文書を完成(文字10ポイント/A412枚・図表6枚以上)させました。

山代西小学校歌の歌詞の作者「吉富 長輔氏」(柞蚕研究科)に関連する、その「絹」(蚕)の発祥伝説である西王母(崑崙山在西湖・西王母/魏略.白玉山有西王母)を祖とする人物が、我が日本の国の創建に関わっていた事も解明しました。その西王母の子孫が神格化された呼称が「白山姫」(加賀の国・一ノ宮の主祭神)でした~


ヘロデ王の第七年(紀元前31年)に発生した大地震を「カミの顕現」(エゼキエル書38・18~19)と捉えたクムラン秘儀教義宗団(1947年にクムラン洞窟から発見された【死海文書】を書き残していた宗団)のトップグループの人達は、エゼキエルの預言(エゼキエル書43・2)に従い、予てから東方への移動ルートを見付けていた紅海から、会稽(呉国)を経て、その昔に徐福が上陸した地(有明海北西部)に、紀元前一世紀の終わり頃に辿り着いた。その極島地(日本列島)への移動を受け持っていたのが後に言う「マツウラ」(海路の王である松の君が語元/魏志倭人伝に記す末廬国の祖であり後の住吉氏族の祖)である。そして、辿り着いた地の北側に位置す海の津に対し、極島の地から西域(紀元前当時の地中海沿岸文化圏)へ向けた海路からの始点値(幻の西暦1年目の始点年と同義語)とするを以て【ゐまり】(ゐまり≒メシアが来る/ミナト・37×10≒天御中主数価と同義)と命名し、沖縄からの海路とは別に、西域に向けた海路としての開発を行った。つまり、ヤマト(日本)と現在に言う中国との海路の開発者は、我が国の「松の君」(頭の3コブ、松の君、背一丈五尺、八十力、勇み激しく~)の祖先であった~

………
伊万里市立「山代西小学校」校歌~
  


Posted by 小島 宏 at 01:09 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2024年01月02日

日本は始めから「文字が在った事」は古語拾遺に書かれている!

★日本全国の度肝を抜くなら~【いまりで、決まり】!

日本の夜明け(建国始点年)は、我が国最初に造語された地名【ゐまり】(IBASILH=イェバ・シローの語元数価358/創世記49・9~10カバラ数価が伊万里市の語元となる)に始まりました。

それは、紀元前1年(庚申)に極東列島に辿り着いた建国創建者(サドク系大祭司)が良質の黒曜石の産地を「ゐまり」(ミナトと同義語)と命名し、世界に向けた表玄関港(松浦郡の語元に起因する)と位置付けたからでした。その港を開いた人物はハテツミ(海神ワダツミは住吉氏族の祖)です。その人に仕えていた與止姫(肥前風土記逸文)が佐賀県の語元となった賢姫です。そしてその王の娘が豊玉姫(神武天皇の父方の祖母/母方の伯母)であり、伝説上の山幸彦(彦火火出見尊の后)の后でした~

何故、正月(元旦)に対し、年賀状に「オメデトウ」(芽出タイ)と書かれるのかと言えば、それはその昔の旧暦正月の名残です。つまり、旧暦正月は立春正月(現在の2月4日頃)であり、植物の芽が出る季節が巡って来た事を示唆する文言だからでした。

又、何故、正月前の大晦日(オオツゴモリ)に角松が設置されるのかと言えば、それは1年循環に於ける四季の動きを、当時の暦の設定者は四角形図的(アセンダント=太陽の道の天体が昇ってくる上昇点)に考えていたからです。従って、冬の終りの角(翌日は立春の元旦に当る)で、立春正月を「始めと終り」の角で待つ(角の松)と言う事を示唆した物体として暦の設定者が設置した事に始まりました(年中行事として設定された)~


又、我が国では年末に「シメナワ」(閉め縄)を張る意味は、それは「新年365日」と「旧年365」との間に、少し時間の誤差(閏年に関連する)が生じます。それで、その隙間を「閉め引き塞ぐ」事で、その隙間から旧年の終えものが入らないように閉め引き塞ぐと定義し、設定されました。

★「あれ鬼モノお破るなら、空這う児(倭天使)にて招き入れ、閉め引き渡しミソギなせ、鬼カミ縛る器物(閉め縄の意)」!!



『古語拾遺』(齋部廣成・著)には【神代文字】(ホツマツタヱ7章に記載在り)文書にしか記載が無い部分、つまり、天照大御神が磐戸(岩戸)から出現した時の様子を漢字で記述しています。仮名に直せば~「アハレ、アナオモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、オケ、サヤケ~」(後文略す)。つまり、齋部廣成が言ったとする文言(前文略す)「上古の世、未だ文字有らざるとき、貴賤老少、口々に相伝へ、前言往行、存して忘れず」(後文略す)の語意は、ヤマト国家創建に着手した当時(AD1世初頭)は未だ漢字が無かったと言う意味です。つまり、ヤマトの国の創建者達は極東への移動(紀元前1年/王莽が政権を簒奪した頃)以前、既に作成済の象形文字(物部文字&ホツマ文字等)を持っていました。それで、神代文字文書にしか記載が無い文面を漢字で~「阿波礼・阿那於茂志呂・阿那多能志・阿那佐夜憩・飫憩」(アハレ ・アナオモシロ ・アナタノシ ・アナサヤケ ・オケ/後文略す)と記していたのでありました。従って、その後年に於いて、その語意を肯定する文書を忌部政通(インベマサミチは齋部廣成の子孫)は【神代巻口訣】文書を用い~「神代文字は象形也」と言い、推古天皇の御代に至り聖徳太子が古来からの象形文字(ホツマ文字)に漢字を当てた(『先代旧事本紀大成経72巻本の完成/その後、その文書の中の旧事等を抜き出すを以て『日本書紀』の底本と成る)等と記しています。

因みに「天照オン神」のルーツは、聖書地名で古代エジブトの【太陽の町】ヘーリオポリスに祀られた【ONカミ】(Godエロヒムの御魂の別称/ギリシア神話ではヘリオス=太陽光線の意)でした。又、その数価(ONの御魂数価300+倭語カミ数価58=358)は、創世記の最初の預言文言のカルデア語(アラム語)「イエバシロー」(日本語訳~シロが来るであろう/創世記49・9~10)。更に要約すれば「メシアが来るであろう」と言うフレーズ文字(IBASILH/イエバシロー)数価【358】と同義語となります。

そして【天照オン神】の大祭祀者(サドク系)アラヒトは、その数価【358】を用い、我が国のヤマト言葉に因る最初の地名【ゐまり】(良質の黒曜石の産出地/伊万里市の語元)を造語し、その港は世界史に於ける日本列島の表玄関として設定し、その港を足場に、クムラン秘儀宗団トップグループの極島移動(紀元前31年にユダヤ国で大地震が発生した事に起因する)を担ったサマリア系【海の民】(紅海一帯の交易国・サバの女王系アクスム王国の人)を祖とする海兵隊(海人・松の君は背一丈五尺・八十力集団の主/佐賀・松浦郡の語元)の船で、列島周囲の島を拠点として本島に分け入り、極東列島の地図(大八州=臀呫の蜻蛉島/①淡路・➁伊予.阿波・③ツクシ=九州全体・④隠岐.佐渡・⑤越・⑥大州(オオシマ)?・⑦吉備・⑧対馬.壱岐)を、大祭司アラヒトが命じ作成させました~

つまり伊万里の語元は、聖書地名地ヘーリオポリス(太陽の町)に祀られていたユダヤ民族のGodの別称「ONカミ」(天照オン神の語元)の秘儀数価であり、又、創世記最初の預言文言(創世記49・9~10/IBAΣΛH=イエバシロー)の秘儀数価【358】が【伊万里】(ゐτ.190+まε.15+りρ.15=358)の語元数価でした。 

伊万里神社
  


Posted by 小島 宏 at 19:25 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2023年12月30日

伊万里(浦ノ崎.塩浜海岸)にカミ(ALHIM/別称ヤハウェ)降臨す~

縮小写真・浦ノ崎の【佐代姫神社】
千木の語元解明に起因する【佐代姫神社】
◆伊万里(浦ノ崎.塩浜海岸)に、カミ(ALHIM/別称ヤハウェ)が降臨(7歳の時/昭和29=1954年)しました!!

知人が言うには、私の研究(日本語の起元解明)は「雲を掴むような話だ」(私40歳=昭和62年)と言い一笑されました。然し、その甲斐あって国語ヤマト言葉、及び、日本国家の起元を解明(ルーツは死海文書に起因)する事が出来ました。そして、その研究内容を「A4サイズ12枚・図表4枚」(今年12月25日.金曜に完成)に纏め完成させました。
伊万里市浦ノ崎郷社「佐代姫神社」

我が国の母語(公用語)、その元点に当るヤマト言葉の母音アイウエオは、ギリシア語母音「aア.エe.イi.オo.ウy」を並べ変えて設定されました。そして極島列島の我が国に、そのアルファベットの痕跡を現在迄も残しています。それは神社の屋根に設置されている千木の形状(ギリシア22番目文字Χの形状/小学生の時に浦ノ崎の佐代姫神社の千木を良く観察していた事がヒントとなる)です。

何故「チギ=千木」と命名されたかと言えば、Xの頭音法式(アッティカ式・χίλιοι数価は千)では数価千を表す文字だからです。因みに、倭語「チキ=千木」の語元は、伊勢神宮の角刺千木の形状にあります。つまり、ホツマ文字の「チ」と「キ」の合字形状を以て建立されているからです。その伊勢神宮の伊勢の語元は、選ばれたアブラハムの僕の人数318人(創世記14・14~15)数価が語元です。つまり、その数価を用い倭語「ヰモヲセ」(妹背)と造語し、その短縮語を以ってヰセ(伊勢)と命名されました。

この研究に着手(昭和61年=1986年)して以来、今年の年末迄37年を経て完成させました。一番難関だったのは資料が非常にが少ない事だった。その資料探しに時間がかかりました。最終的に、その資料探しは能動的(自らが考えて物事に取り組む意/ active )に行動しました。その甲斐あって奇跡的に【死海文書】(1947年・クムラン洞窟から発見)を購入(2005年)するする事が出来ました。その研究結果、「神武東征物語」が創作された秘密を解き明かす事に成功しました~
  

2023年12月01日

日本人の聖書【ホツマ・ツタエヱ】

天地の歌

日本語の起元文字




◆私の言葉が聞き取りにくい(歯が少し悪くなっている)ので、読み上げ文書は~㊦のURL.http//… ↓ ↓ ↓~クリックする~

(全文書 URL・http//…)~  https://ameblo.jp/erusaremu464/entry-12606468795.html



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Posted by 小島 宏 at 05:21 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2023年11月28日

日本の国語ヤマト言葉の始りに付いて~!

日本語の起元文字
『ホツマツタヱ』(日本書紀の底本)はミマキ入彦(崇神天皇)12年=西暦351年の時とするミコトノリ~「肇国(ハツクニ)知らすミマキの代」(ホツマ34章)と発せられたと在る。つまり、そのヤオのアラヒト大祭司は、 それ迄の小国連合体制から「統一国家・ヤマト」(塩釜の翁が支配する東北は除く)と定義し政権を崇神に譲るを以て、それ迄の歴年史を書き換えました。それが現在のホツマツタヱの内容です。何故書き換えたかと言えば、エルサレム第2神殿が陥落し祖国ユダヤの歴年史が途絶えたのでヤマトの歴年時代を間接的、聖書的に接続する為でした。それが解ったのは『太神宮諸雑事記第一』(禰宜・荒木田氏一族の文書)の景行天皇、雄略天皇条の内容です。つまり、その当時は未だ西暦年が無い時代に世界歴を有すユダヤの歴年に繋げて伊勢神宮が建立されていた事を、伊勢皇大神宮(内宮)の禰宜、荒木田氏一族が書き残していました。

ユダヤの歴年に対し、我が国のホツマ文書の中に於けるヤマトの皇暦年は意図的に「180年」多く設定していました。それは、秘密裏にカバラ教義を組み込んだ我が国のアイウエオを母音とする文字(アワの歌文字配列はギリシアのイオニア式文字配列合致させている)を用い、地名「伊勢」(ヰモヲセ・妹背が語元/語元数価318はアブラハムがエルサレムを奪還した下僕の人数)を造語した事に起因します。それで、崇神12年(詔の年/AD351年)を天使数価280(天使サンダルフォン/S(Ξ.60)NDLPVN=280)を介し、観念的にエルサレム第二神殿陥落翌年(AD71年)の年に接続(351-280=AD71年)しました。そして更に、そのAD351年(崇神12年)から358(創世記49・9~10…IBASLH数価358)過去に遡った紀元前7年の時を「反逆者の長髄彦討伐開始年」とするハルマゲドン六年戦争(死海文書)の模倣物語を設定しました。それは、我が国の歴年史をユダヤ大地震年から31年目(幻の西暦1年目・辛酉)を、新たに創建する国家の歴年始点値と最初から予定していた事を定義付ける為であった。

因み、正式的な伊勢神宮建立年は太神宮諸雑事記第一に記す雄略天皇条「大神宮天降御座後経484年」の時です。然し、伊勢神宮の建立年に付いては『日本書紀』にも『古事記』にも全く記載されていません。伊勢内宮の説明だけが頼りと成っています。つまりカミ「天降御座484年」とは、崇神12年(AD351年)から過去へ358年遡った紀元前7年(東征開始年・甲寅)から484目(幻の西暦477年=雄略21年)と言うことです。当時は未だ西暦年は存在しません。然し、当時のホツマの著者(ヤオの大祭司や三輪氏・春日氏)達は、ユダヤの歴年を把握していて、その証拠となるのが、垂仁天皇26年=皇歴在位通歴657年の時として伊勢神宮が建立されたと記している事です。つまり、その「皇暦年657年」の出自は、エルサレム神殿陥落BC586年から第二神殿陥落翌71年迄の通歴年(586+71=657年)です。従って、その皇暦年から180年(ユダヤ暦との誤差)差し引いたら「西暦477年・雄略21年」(禰宜・荒木田氏文書)が、正式的【伊勢.皇大神宮】(内宮)の建立年となります。因みにユダヤ暦では4237年に当たります。

『ホツマツタヱ』は世界歴(ユダヤ暦)の年代に接続する為に歴年を再設定しました。それは、ホツマ最後の景行天皇即位元年=天鈴暦731年から「カカンノンテン」(伊勢神宮建立に先立つ猿田彦の文言/数価660を意味する文言)数価を過去に遡った「AD71年」(第二神殿陥落の翌年)に対し観念的、聖書的に接続する為に皇暦年を再設定しました。その後の文書は、武内宿禰(ホツマ・景行天皇25~26年条に記す/武内は世の遠人)に託しました。つまり、第13代成務天皇から仁徳天皇50迄は武内宿禰文書と考えられます~

◆武内宿禰(景行天皇25年・26年条)~身を知るワザの幾さわに、歳永らえてヨロ人の、道のシルベ(標)と在る文お、代々に伝ふる武内は、遂に永らふ道となるかな(ホツマ・38章)と記されています。因みに、その文面中の「遂に永らふ道となるかな」の語意に対し『日本書紀』の仁徳天皇50年条には~「なこそは世の遠人、国の長人」と記載されていて、その年以降の『日本書紀』には武内宿禰の登場はありません。
… 
因み、私が『ホツマツタヱ』の研究を始めたのは、昭和25年の3歳の時に、伊万里の浦ノ崎海岸の我が家の側に咲いていた黄色い花の呼称を知りたいと思った事に起因します。つまり、その黄色い花(ハマボウの花と知ったのは37年後)の美しさに感動し、その木の語元を母に訊いたら「木の名前を付けた昔の人に訊いてこい」との母の返事でした。それで私が大人になった時(26歳)に、死ぬ迄には必ず日本語の始まりを解明すると考えた事にありました。そして野垂れ死に覚悟で、その手掛かり探しに明け暮れました。知人が言うには「雲を掴むような話だ」と言って笑われました。然しその甲斐あって、そのルーツは【死海文書】(1947年発見/クムラン洞穴出土文書)を書き残したQumran宗団で在る事を発見(2005年=平成17年・58歳)しました~


天地の歌




  

Posted by 小島 宏 at 03:42 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2023年10月31日

【伊万里】(ゐまり)の語元!

◆伊万里のキャチコピー「いまりできまり」(伊万里の語元に付いて)!

◆地名【ゐまり】(伊万里市の語元)の地名発祥(名詞/物事が起こる事。 物事の起こり始め)は、ユダヤ捕囚時代初頭頃(紀元前586年頃)に祭祀者だったエゼキエルは預言者と成り、極東方面に対する崇拝思想文言~「イスラエルのカミの栄光は東の方から来た」(エキエル書43・1~2)に起因する。そして、極東への移動に対しては、エゼキエルが課した罪咎(バビロン捕囚の原因)に対する【悔い改め期間430年】(エゼキエル書4・4~5)を全うした後(紀元前156年頃)、死海西岸に位置すクムラン地域に隠れ住みながら結成した秘儀教義宗団トップグループの人達は、理想郷の地(極東方面)に新たな国を創建する研究を行っていた。

そして,ヘロデ王第7年(紀元前31年)にユダヤ国を襲った巨大地震(1947年発見【死海文書】の研究者に因ると~クムランの秘儀教義宗団の集会所も紀元前31の大地震で破壊されたと言う)に対し、それはエゼキエルが予言していたカミの顕現(エピファニー/エゼキエル書38・18~20…

★その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる)と捉え、それを契機として極東を目指しクムラン地域を脱出し、アクスム王国イエメンのサバの女王系サマリア人【海の民】の船で紅海から東に向かう。又、サドク系の祭祀者等一行はダマスコからチベット経由~前漢国を経由(【魏略】に記載在り)し、呉の会稽で【海の民】の船に合流するを以て紀元前1年頃に、その昔に徐福が辿り着いた地(有明海北西部)に到着する。

【ゐまり】(世界史的日本の表玄関港/良質黒曜石の産出地/伊万里市の語元)とは、創世記の預言文言、つまり創世記49・9~10「ユダヤの指導者シロー(セム系の大祭司メシア)が来るであろう」等と言うフレーズ文言の秘儀数価【358】(IBA.ShILH/イエバ.シローのカバラ数価~10+2+1+300+10+30+5=358)を用い、我が国の国語【ヤマト言葉】による我が国最初の地名単語として造語されました。
因みに、ヤマト言葉(基本48文字)のゲマトリア数価(予め各々の単語文字に与えられた数価の合計で意味を解す方式)設定方式は、ギリシア語の母音「a.ア・e.エ・i.イ・0.オ・y.ウ」を「ア.イ.ウ.エ.オ」に並べ替えた。そして、その子音文字配置「ア.カ.ハナ.マ」等に並べて24文字ずつに区切り(24字+24字=48文字)、イオニア式ギリシア文字配列に組み込みました(画像在り)。

因みに、その幾何学的文字【チ】と【キ】の合字(モノグラム)形が、神明様式「伊勢神宮」の【角刺・千木】の形状であり、【チキ=千木】の語元です~!!


アワの歌



ホツマ文字





  


Posted by 小島 宏 at 10:31 | Comments(0) | 【日本建国・創建史】

2023年10月26日

【佐賀県伊万里市立山代西小学校・1年2組】(昭和29年=1954年)!


写真・山代西小学1年2組~




佐賀県伊万里市山城町浦ノ崎の海岸に復活し「咲いていた」




下段画像は、今から69年前(昭和29年)の伊万里市立山代西小学校【1年2組】(担任は女性の馬渡先生)。因みに、それぞれ担任の先生達は最後の列に写っていますが、その左端の人は記憶にありません。従て~最上段の左から二番目から順に言えば「1年1組・木下先生」。「1年3組・長谷川先生」。「1年4組・田代先生」。

写真の上段は、佐賀県伊万里市立「山代中学校」時代の近所等での遊び仲間(5人)です。つまり、昭和38年=1963年春の「集団就職列車」で大阪駅に着く。そこから就職先【株式会社・大軌クリーニング】(【大軌】の語元は~大阪電気軌道の略称/近畿日本鉄道=近鉄の直系の前身に当たる社名に由来)社長の自慢の自家用車(当時の日本の最高級車とされたプリンスグロリア)に乗り、直行した布施の職業安定所の駐車場で、その社長が撮ってくれた写真です~


就職先の近くには大きな【枚岡神社】(河内国一宮・旧社格は官幣大社/祭神は天児屋根命)がありました。因みに、その当時(30歳頃迄)の私は、神社等に何の興味も持っていませんでした。然し、大阪の河内(枚岡市=現在の東大阪市と八尾市)に来た事が縁(二つ以上のものが寄りついて関わりを持つ作用)で、或る女性と知り合い、それ以後、神社の起元ルーツの研究(それは昭和25年=1950年・3歳の夏にハマボウの花の木の語元を知りたいと思った事に起因する)に取り組む事となりました。因みに、【ハマボウの花】の木は現在【佐賀県の絶滅危惧種】に指定されています~


◆伊万里市立山代西小学校~【小学・1年2組】の写真撮影場所は、在りし日の「1年生の教室が並ぶ校舎(南側=右から1・2・3・4組迄あった)玄関前(運動場の東に位置す)です~因みに、下段の写真は【小学1年2組】(私は中段の中心から右側に居る)の画像です。


上段の画像は、昭和38年=1963年の春。それは「就職列車」が着いた大阪駅で降り、待っていた社長の車で直ぐ枚岡市(現在の東大阪市)の職業安定所に直行。そこの駐車場で、社長の自慢の自家用車の前に並ばされ、その社長が写してくれた写真です~


★現在、伊万里市「川南造船所事務所・跡地」東側の海岸に咲く【ハマボウの花】は、叔父が【焼塩製造】(1897年=明治30年頃/叔父の二十歳頃)を始める時に、伊万里湾の牧島海岸に自生していた苗木を3本を記念樹として等間隔に植えた木の花の種が何時しか流れ着いて繁殖したるのです~



  

2023年10月19日

【日本】(日ノ本)の語元に付いて~

『肥前風土記』(元明・女性天皇が和銅6年=713年に諸国に命じ作製させた)の逸文に、「日本国家創建史」(AD1世紀~4世紀頃)に関連する記述があります。それは【杵島唱曲】(きしまぶり/おこ歌=笑い歌・歌垣)です~つまり常陸風土記に因ると、タケカシマ(健借間命)は七日間もの間、【杵島唱曲】で国栖(クズ=賊)達を誘き出し、平らげたと記す(伊移之郷/イタクノサトの語元)。  

★古老曰く崇神天皇の御代(前文略)~そこには、夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人を首領とする賊たちが穴を掘り要塞を造って住んでいました。彼らは命の軍隊が来ても降伏せず、手向かいました。建借間命が軍勢を差し向けると、賊は逃げ帰って要塞を閉ざしてかたくなに抵抗しました。
そこで建借間命は賊たちをおびき出すために、策略を思いめぐらしました。まず勇猛果敢な兵士を選び出し、これを山の隅に隠れさせ、兵器を作って備えつけました。それから海岸に船や筏を組んで、雲のような大傘を張り広げ、虹のような旗をなびかせました。そして天の鳥琴と天の鳥笛を美しく鳴らして肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)に伝わる杵島曲を、七日七夜も奏で歌い舞ったのです。

そのうち、賊たちは賑やかな音楽にひかれて要塞から皆出てきて、浜辺いっぱいに浮かれだしました。その時建借間命は、騎兵に命じて要塞を閉ざさせて退路を断ち、後ろから襲撃して、ことごとく賊の仲間を捕らえ、同時に焼き殺してしまいました。(後文略)とあります~


★極東列島(日本列島)の最極東(【世界最初の日の出の地域】)に位置す東北南部がヤマト国に組み込まれたのは崇神天皇時代(AD340~405年迄/成務~仁徳迄に2年の空位在り)からです。 つまり、東北の鹿島氏族のルーツは佐賀(肥前国)の「鹿島氏」がルーツでした。

【日ノ本】(JAPAN)の語元は、共和政ローマ時代の紀元前133年に、Pergamon王国がローマに遺贈された事に始まります。つまり、紀元前133年にPergamon(現在のトルコ西域)の国王が死去し共和政ローマ国に遺贈(属州)された事により、初めてアジアの名Asu(東の意)に地名接尾辞にラテン語iaを付しアシアの語元に繋がる行政上の地名が登場した事に起因する。従って、その年以降、最極東に位置する地域が世界最初の「日の出」地域(現在の日本国)と定義する事が出来るようになりました。その歴史的経緯を知っている人達(Qumran秘儀教義宗団トップグループの人達)が、クムラン大地震発生年(紀元前31年)後、エゼキエルの預言(エゼキエル書43・2)に従って極東に移動し、我が【日本国】を創建しました~

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Posted by 小島 宏 at 06:31 | Comments(0) | 日本建国史

2023年10月11日

【日本語のルーツ解明・物語】

【ハマボウ(黄槿)の花の花の下』で】より~

【ハマボウの花の下で~】の思い出より!!
…シモネッティ作曲・マドリガル【牧歌】・唱歌(小沢くみ子・作詞/全部平仮名で一番だけ)は、「福岡教育大の図書室で歌詞の載った教科書」の中で見つけもらいました(さがフアン・ブログ)~


♪ あきのそら、きよらにすみ、草になる風もたえ、雲のかげ、とおくにさる、うしのむれ、うごかずに、ああ、しずかなまきばのひる、そらもたかくすむ。(全部平仮名で一番だけです)。


♪ あきのそーら、きよらにすーみ くさになーる、かぜもたえ、
くものかーげ、とおくにさーる、 うしのむーれう、ごかずに、 
あーあー しずかなまきばのひーる、 そらもたかくーすーむー





それは夜逃げ(昭和24年=1949年冬1月6日2歳6ヵ月/家財道具は楠久(クスク)炭坑社宅裏窓から直ぐの岸壁に横付けした叔父の船に積む様子を目が覚めた私は観ていた)に始り、夜明け前に浦ノ崎の追﨑峠崖下(伊万里市山代町浦ノ崎・高尾ノ鼻の根本)に位置す叔父の家の真上に到着。その日から叔父の家での生活がスタートする。夜逃最初の或朝、叔父の家(浜辺の1軒家/焼塩と瓦製造所)の海岸際に植えられた3本の木の葉の間に黄色い美しい物(昨日は無かった)を見付けた私は驚き直ぐ母の元に走り寄って訊(キ)くと、誰も正式呼称を知らず、唯「木の花」と言う。それで「木の語元」(黎明(レイメイ)的語意を有す語源の意ではない)を訊(キ)けば、「大昔に名付けた人に聞いてこい」との母の返事だった。4年後(昭和29年7歳/小学1年)の或日の朝飯(麦飯/麦3割程混ぜたご飯)には細かく刻んだ素麺(ソウメン)が混ぜて炊かれていて、麺類嫌いの私は食欲を失くし何も食べずに学校(昼迄)へ行く。空腹(昼迄だから給食無し)で下校し、祖父の発動機船(瓦製製造の原料・赤土運搬船)の上に仰向けでボンヤリ空を見ていた時~「光線が一瞬、私の額を貫(ツラヌ)いた」。フト、我に返ると何時の間にか~「自分にしか出来ない事がある」(此の当時は色々の語元が知りたかった)と言う言葉が私の頭の中に刻み込まれていました。

…その2年後の昭和31年=1956年/小学校3年の5月。その日は家庭訪問で昼過ぎ頃に先生を道案内し家に帰ると、佐賀県伊万里市県道(後の国道204号線)拡張工事に伴い浦ノ崎の塩浜海岸際に位置す叔父の家(我が家族も同居)は半強制的に立ち退きを余儀なくされ、家の半分は解体工事中だった。然し驚いたのは、家の直ぐ横(海岸際)で毎年夏の間ずーと黄色い美しい花を咲かせていた3本の木(フト32年後の昭和63年に潮水と真水が混じる海岸付近に咲く花と叔父が言ったのを思い出し『原色日本植物図鑑』で調べ佐賀県絶滅危惧種指定【ハマボウの木】と初めて知る)が、見るも無惨に切り倒され切り刻まれていた。その変り果てた木を目の当りにした時の悲しさと哀れさは今でも忘れる事が出来ません。そのやり場のない虚しさを何時も癒してくれたのは家解体工事少し前の小学3年音楽授業時間最後に、教科書の或る曲(53年後=2009年にシモネッティ作曲マドリガルと知る)に歌詞を付して唯1回だけ女の先生が歌って下さったメロディーだった。その後年(昭和48年=1973年/26歳)、啓示的【自分にしか出来ない事がある】意を探す為に脱サラ(退職)し【自分探しの旅】(自由業/インナートリップ)に出る。その旅の途中(昭和51年=1976年・29歳)、【by(バイ) Chance(チャンス)】(際会(サイカイ))的に知り合った彼女(11歳年下/5年後に別れる)との出会いに起因す、或る店で読んだ新聞記事(昭和61年=1986年8月22日・金曜の毎日新聞夕刊コラム欄/【柱と鳥について㊤】(筆者…哲学者・梅原猛(タケシ))に感化された私(39歳)は、早速【鳥居】と【千木」の語元究明に着手し、その翌年に先ず【千木】の語元解明(ギリシア文字Χ(キー)は数価千を表すを以て千木と言う)に成功しました。