2025年03月18日

「ヤマト言葉」のルーツはサクラの語元に関連す!

「ヤマト言葉」のルーツはサクラの語元に関連す!


日本語の元点【ヤマト言葉】のルーツはサクラの語元に関連す。つまり「酒飲む合いに、桜の実(サクランボ=ギリシア語ケラスス)、秋帰る日も、酒贈る」(ホツマツタヱ・11章)。

★サクラ(桜)の語元はギリシア語「Χ(ch)erasu」(ケラス=赤い実を付けるサクランボの木)だった。その頭文字「Χ」(Χ/Χi・キー)は、春日氏族の祖であり我が国最初の祭祀者(ギリシア系香取氏の1人娘を娶る)と成った、そのアメのコヤネの語元数価85(ア1+メ20+コ22+ヤ23+ネ19=85)は、倭の天使「アマカツ=空這う児」の秘儀数価85と同じ天使数価である。

そして、数価千(チ)を表すギリシア文字「X」の形状を、天界に坐すGod(カミ=上)の依代として建立された「倉造・社殿」の屋根に設置するを以て、Godエロヒムとの交信教義(フト祝詞文言をGodに届ける教義)と定義付け、尚、その第22番目文字「Χ」はヤマト言葉の「サ」(サ倉=佐倉氏の祖先~ペルガモン系の人達がサクランボの苗木の持ち込み者)に当る故、山桜に対し「サクラ・佐倉」と命名された。

因みに、サクラの語元ルーツ「ケラス/Χ(ch)erasus」(・赤い実が生るサクランボ)の木は、「自家不和合性植物」だから繁殖が難しかった。それで似た種類で山に咲く花の木を社殿等の敷地内に植樹するを以て「サクラ」(里桜/千葉県の佐倉氏・桜打氏の語元)と命名されました。

因みに、日本では「国花」は法定されてなく、天皇や皇室を象徴する花
は【菊】である。そして、現在のサクランボ(果実桜)の多くはヨーロッパの「甘果桜桃=西洋実桜系」(江戸時代初期の中国のサクランボは寒さに弱く広まらず)が、明治初期に欧米から伝えられた)とされています。

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Posted by 小島 宏 at 05:47 | Comments(0) | 日本建国史

2025年02月25日

【ヤマト言葉の起元研究】(『ハマボウの花の下で』より)

①【ヤマト言葉の起元研究】(『ハマボウの花の下で』より)

 「ヤマト言葉の起元研究」は、日本国家創建年の問題(紀元前660年説は間違い)を解決致します。つまり、縄文文化の延長上に日本(ヤマト)国家が誕生したとする説は出鱈目(でたらめ)説です。因みに、日本書紀の劈頭(ヘキトウ)文言(日本開闢(カイビャク)・冒頭成句の漢字130字)は、『旧約聖書』劈頭文の焼き直し版である。つまり、日本開闢に於ける【含牙】(フクメリキザシ)(牙(キバ)=歯の秘儀教義(カバラ)数価300はGod(カミ=上)エロヒムの息=言葉の始まりで~創世記1・3~God(エロヒム)が「光よ。あれ。」と仰せられた。/ヨハネ福音書1・1~始めに言葉ありき。)に対し、「兆(キザシ)」(光りの源(ミナモト)の太陽が闇に光を放ち「キ=東→サ=南」の天上へ移動す意)と読ませている。つまりヤマトの原初のカミ(上)、即ち、「国常立(クニノトコタチ)=可美葦芽彦舅(ウマシアシカビヒコチ)・尊(の・ミコト)」の【ミコト(3910)】(命=尊(3910))とは、旧約聖書【創世記】の元語であるBRASIT(ベラシト)(カルデア語)のゲマトリア数価(秘儀教義カバラ数価)「3910(ミコト)」が語元であった。早い話が、ヤマト言葉の「カミ」(上(ウエ)の意)に対し、縄文時代から的な「アニミズム」(自然崇拝)や、「フェティシズム」(呪物崇拝)ではないと言う事です。

 私が「日本語の始まりが知りたい」と思ったのは3歳(昭和25年=1950年)の夏の事でした。それは我が家族は徒歩で夜逃げ(正月4日の夜)して辿り着いた叔父(焼塩と瓦製造業)の家での同居生活が始まった事に起因します。その叔父の家は小さな港(塩浜)の海岸際に位置し、最初の夏の或る日の朝の事。家の直ぐ前の海岸際に植えられた3本の木の葉の間に、昨日迄は無かった美しい色の物体を発見する。そしてその美しさに驚いた私は走って母の元に行って訊(キ)けば「黄色い木の花」(家族の誰もが正式名称を知らなかった)と言う。それで誰が「キ=木」と名付けたかとシツコク質問すると~「ヤグラシカ(煩(ワズラ)わしい)、大昔の人に訊いてこい」と言い、それ以後、母は私の質問には答えなくなりました。その6年後(昭和29年・7歳)の小学1年の或日の事。祖父の発動機船(瓦の原料の粘土運搬船)の上に仰向けで空を見ていると、一瞬、光が私の額を貫いた。ふと我にかえるとCommand(コマンド)(支配)的に~「自分にしか出来ない事がある」と言う言語が私の無意識下の脳裏にインプット(入力)されていた。話を戻せば、その日の朝の麦飯(ムギメシ)(麦3から4割程混ぜた飯)には、細(コマ)切りの素麺が混ぜて炊かれていて、当時の私は麺類が嫌いだったから何も食べずに小学校へ行った。そして下校後は空腹状態で、直ぐ、叔父の発動機船の上に仰向けで空を見ていた時の、それは不思議な出来事でした。そしてその時にインプットされた啓示的な言葉「自分にしか出来ない事がある」の事は、今迄(此の文書を書く迄)誰に話さず我が胸の奥に仕舞い込でいました。


 中学校を卒業して国鉄の集団就職列車で上京し、大阪府の或る会社に就職した頃には不思議な出来事の事は何時しか忘れていた。然し、夏の間は美しい黄色い花を咲かせていた3本の木の事。それは私が小学3年の5月に、佐賀県伊万里市の県道(現在の国道204号線)拡張工事に伴い、浦之崎の「高尾の鼻」(海に突き出た地形)の北側付け根付近に位置す断崖下にあった叔父の家(我が家族も同居中)は半強制的に立ち退きを余儀なくされていた。その頃、私が小学校3年の家庭訪問で我が家は1番遠くて探しにくいと言う担任の吉田先生(手品が得意だった)と一緒に帰宅すると、夏のあいだは何時も黄色い美しい花をさかせていた3本の木は、見るも無惨に切り倒され切り刻まれていた。その変り果てた3本の木を目の当りにした時の悲しみと哀れさは今でも決して忘れる事が出来ません。だが、その悲しみと悔しさを何年たっても何時でも癒してくれていたのは、小学3年春頃の音楽の授業で1回だけ習ったメロディ-と、その歌詞(音楽の教科書は買ってもらってないから曲名は忘れた)だった。その音楽の授業があった日、家に帰った時にはメロディーは覚えていたが歌詞は最後の部分「♪ 空も高くーすーむ」と言う処だけ覚えていて、歌い出しの処は忘れていた(その53年後の2009年=平成21年に曲名は…シモネッティ作曲の牧歌マドリガルと知る)。







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Posted by 小島 宏 at 12:30 | Comments(0) | 日本建国史

2025年02月02日

【鬼】の語元!

「今年の節分は2月2日・日曜」~年分けの夜は、豆お煎り、皆 鬼ヤラフ(三笠文・嘗事のアヤ)。

★「あれ鬼(終え)モノお破るなら、空這う児(ヤマトの天使数価85+ユダヤ天使数価280=1年循環法則数価365)にて招き入れ、閉め引き渡しミソギなせ、鬼(終え者・ユダヤ教の大祭司オニアス4世の意)カミ縛る器物」(ホツマ12章)。

★「ヰカ(5日)スリ内」(坐摩内/1ケ月30日×12=360日の残り5日の宮清めの事)の、鬼ヤラヒ、カカンノンテン(ヤマトカバラ数価1022/伊勢神宮の建立年数価657+1年循環数価365=1022)揃ふ時」(ホツマ14章)。

★年越えは、ウムキとスメと、ヨネむます、年のりヤマサ、鬼やらふゐ」(ホツマ38章)。

★年分け(旧暦の大晦日)の夜は、豆お煎り、皆鬼やらふ」(ミカサ7章)。

その【オニ】とは「終え物」の事であった。つまりそれは、エゼキエルの預言に従って脱ユダヤ教を目指した【義の教師】(ダビデ系の人達のグループ)に率いられたクムラン秘儀教義宗団(1947年に発見された【死海文書】に記載在り)の人達が、ヤマト(日本)国を創建する時(崇神天皇時代)に設定した「年中行事」に組み込まれた教義でした。その意味する処は、ヨベル書6・9~33に記すユダヤの「7週の祭=ペンテコステ」に起因し、その模倣として鬼(終え物=ユダヤ教の教義)を祓う教義が設定されました。その意味する処は「年中行事」(水無月と師走・晦日の祝詞教義を含む)を滞りなく履行する事で、Godエロヒムとの契約、即ち「大洪水阻止契約」。及び、その契約が「自動更新」(ヨベル書に記載在り)されるとする教義でした。

因みに【門松】とは、旧暦(立春正月)の1年最後の夜の角で新年が来るのを待つ、と言う意味でした。従って、その夜に終え物(鬼=オニアス・鬼明日)の霊が入り込むのを防ぐ意として、「閉め縄・〆縄」を張り、その1年最後(大晦)の夜は煎り豆(マメに働く人の心には鬼が入る隙間がない意)を蒔く教義が神事「鬼やらゐ」として行われました。





  


Posted by 小島 宏 at 09:02 | Comments(0) | 日本建国史

2025年01月02日

「鹿島」と「伊万里」と「門松」の語元

世界史に向けた当時(紀元前後頃)の表玄関港としての伊万里(ヰ190・マ15・リ153=358はメシアの語元数価/創世記49・9~10)とは、カミ(上・天地創造主エロヒム)の降臨地として命名された地名呼称です。つまり、AD349年(崇神天皇10年)に佐賀カシマ(189鹿島)系タケカシマ命(常陸国風土記)は、伊万里港から船出して東海(静岡)、及び近隣の国賊(クズ=国栖・現在の茨城県)を平らげました。そしてその2年後に於けるヤオのアラヒト大祭司のミコトノリ(崇神12年条)~「初国知らすミマキ(崇神)の代」等と発すを以って我が国は小国連合体制を解体し、≪ヤマト(日ノ本)国家≫としての体系化を完成させました。その統一国家としての年中行事、その1番最後は何故、大晦日(旧暦12月30日)の夜の神事としての【鬼ヤライ】教義が設定されたのか~

それは紀元前133年以降のペルガモン王国をAsia(アジア)の始点地とする古代ローマに因る行政上の呼称が誕生した事に起因します。従って、世界で最初に迎える新年の初日の出現地は現在に言う日本列島の中でもFar East(最極東)に当たる日立(常床立・現在の茨城県)に当たります。そしてその日立地域より北の東北南部を朝の兆し地域とする。尚、香取(千葉県)地域は旧暦の大晦日の夜と新年との境界線地として設定された。従って、その地域には鹿島神宮を建立しました。つまり、鹿島の地域は太陽が普遍的循環する1年の始点地(カバラ数価/続き歌数価T.19+Godの御魂フツ数価..π80+鹿島数価189=1年循環法則数価【365】)の境界線地とする。そしてその鹿島の頭文字「カ」を取り【香取】と命名し、Godの御魂数価80(π)を語元とする呼称フツ主を祭神として香取神宮(千葉県/黒海付近ペルガモン地域のケラス=サクランボを語元とする桜の語元地)も建立されました。

因みに、新年の正月を迎える為の「カドマツ」の語元は、鹿島と香取の間が地形的新旧日時の境界地に関連し、大晦日の夜の24時間の切れ目が日時的な境界線に当たり、日時の「カド・角・門」(香取/カトリのカトが語元)と定義するを以って、新年を旧年最後の24時間切れ目の「カドで待つ」(角・で待つ/門松)と称し、旧暦の大晦日に【門松】が設置されたのでした。



  


Posted by 小島 宏 at 02:11 | Comments(0) | 日本建国史

2024年12月27日

「カシマ=鹿島」の語元


「カシマ=鹿島」とは、現在の有明海北西部に辿り着いた人達の中で或る部族が居住地と定めた地域に対し、我が国最初の地名として命名された呼称(カΒ・3+シΣ・.171+マΕ・15=ヤマト式カバラ数価189)である。つまりそれは、それ以前に於ける天地創造主エロヒム数価86、及び、ヤマト(日本)方式のカバラ数価(俵積み算)を用いて造語されたヤマト式の天使「空這う児」(3歳/稚児の天使)の呼称【アマカツ】(天勝/三星堆遺跡の西王母の頭に頂く文字呼称・数価85)の数価85を合計したヤマト式「アスズコヨミ=天鈴暦」(1年循環法則日数360)の日数を抽出する為の呼称であった。、残りの 5日は、神殿を清める為の閏5日(イカスリ=坐摩の語元/大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺に在る神社名)として設定された。 従って、極東列島は「日ノ本=ヤマト」と命名されたのである。  

【香取神宮】(千葉県香取市/下総国一宮)の「カトリ」の語元は、カシマ(鹿島)の頭文字「カ」を取って「カ取」(香取)と命名されました。そしてその地は「ツクモ」(世界最初の日の出の地域に着く意/ツクバ山や九十九里浜の語元)とも呼ばれました。その意味する処は「世界最初の日の出」(ヤマト=日本の語元)の地を意味します。

つまり、紀元前133年にアジアの始点地として、それは古代ローマ側から見てペルガモン王国より東に対し行政上のアジアと呼ぶ地名呼称が誕生した事に起因します。それで紀元前133年以降、 Pergamon(ペルガモン)王国の1部の人達を取り込んだ【クムラン・秘儀宗団】(1947年に発見された死海文書を隠し残し紀元前31年以降に突然姿を消した宗団)トップグループの人達が極東方面に向け移動し、辿り着いた極東列島(後に言う日本列島)の中でも最極島(現在の千葉県付近)の、更に、最初の朝日が昇る地域付近に対し「ツクモ」(着く・モ=A)と命名されました。その意味する処は、世界最初の日時の始点地であると共に、普遍的に日時が繰り返し始まる事を意味します。尚、その語元ルーツは古代ローマの行政上の呼称アジアが誕生した事を知っている人達が移動してきた事を物語る。そのペルガモン地では柑橘類、つまり聖書呼称「エトログ」(シトロン)が栽培されていて、その種を植えた事から香具山と呼ばれた。そして尚、非時香菓(トキジクノカグノコノミ/時軸の香具の木の実)とも呼ばれました。そしてその地一体は、フツヌシ(経津主命)が統治していた事により「香取神宮」の祭神として祭られました。

「香取」の語元は、肥前(現在の佐賀県/ヒゼンは日の前の意)の「カシマ」の「カ」(日時のカ=日)を取り、「カトリ=香取」と命名。因みに、肥前のタケカシマ(健借間命)は『常陸風土記』に因ると、東北(千葉や茨城付近/ホツマ国とも呼ばれていた地域)の「クズ=国栖」(荒ぶる人達)を誘き出す必要から、七日七夜の間も肥前の【杵島曲】(キシマブリ/宴会)を用い国栖達を誘き出し、常陸国(日立の意/夜の寝床から目を覚ました日が立ち上がる意)を平らげたとされている。従って、常陸には「鹿島神宮」が建立されました。


  


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2024年11月08日

「卑弥呼の祖先・ルーツ」を解明しました!

「卑弥呼の祖先・ルーツ」を解明しました!

★【卑弥呼】のルーツ(籠名神社祝部氏系図/『先代旧事本紀』系図)を解明しました。

★卑弥呼のルーツは、日本の「古代史」(推古天皇時代頃から奈良時代=AD710年頃迄・それ以前は文字無し時代とする)の研究では捉え切れません。従って、当研究は世界史に関連する「地理歴史」(後漢書時代は地理志・表記/古代ギリシア時代は・地理誌と訳す)として位置付けています。従って、その「地理歴史」としての卑弥呼に関する研究に於いて、その切口は『三国志』の「西域伝」(裴松之・著)の解説から始める事としています。


★【卑弥呼】の系図は、国宝指定【弥彦=高倉下命の系図】(京都府宮津市・籠神社/丹後の与佐宮)として保存されています。

先ず最初に八尾の竹淵(タコチ)に来た神武(東征=反逆者・長髄彦討伐戦)の子孫が卑弥呼である事を魏志倭人伝(注・魏略)は記しています。それはつまり~「復立」(紀元前2年に前漢の哀帝を表敬訪問した人物=後の神武に当たる伊存)。その子孫(復立)として魏志倭人伝(注・魏略)は~「昔、漢哀帝の元寿元(紀元前2年・巴未)、博士弟子の景盧が大月氏王の使者の伊存から浮屠経を口受」と記す。その伊存(後に倭国の王となる人)の復立(後の卑弥呼)とは~「復立・卑彌呼宗女壹輿、年十三爲王」(宗女イヨ・13歳で立つ/ホツマ13章)と記しています。

卑弥呼の系譜は、昭和53年=1978年に国宝に指定された日本最古の系図(弥彦=高倉下命の系図)である【海部氏系図】(京都府宮津市の籠神社に保存されている二種の系図/先代旧事本紀の尾張氏系図と同じ)に、【世襲足】(卑弥呼は天忍男の妹)と記されている。そして、その後継ぎに対しては、「春日ヲキミの押姫を入れて内宮・今年13歳/宗女壹輿も13歳)と、日本人の聖書として書かれた『ホツマツタヱ』文書は記しています。



正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦罽賓・刀・鏡・采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木犬付(弣?=弓柄)・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米為檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。★【復立】「卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定」。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

「正始元年=AD240年」記事の訳文(魏略・前文略)~更めて男王を立てると国中は承服せず、更めて相い誅殺し、このとき千余人が殺された。★【復た】(復立)「卑彌呼の宗女の壹與を立て、齢十三で王とし、国中が定まった」。張政らは檄文で壹與に告喩し、壹與は倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗ら二十人を遣って張政らを送って還し、同時に臺に詣らせ、男女の生口三十人を献上し、白珠五千・孔青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢納した。

倭人傳の注釈書【魏略】(臣・裴松之の注釈書/ハイショウシ・AD372年~451年迄生き三国志の資料を精査し、事実補う注釈を加えた人)に因ると~
【臨兒國】~浮屠(日本の祝詞に用いられた太占の語元)經云其國王生浮屠。浮屠,太子也。父曰屑頭邪,母云莫邪。浮屠身服色黃,髮青如青絲,乳青毛,蛉赤如銅。始莫邪夢白象而孕,及生,從母左脅出,生而有結,墮地能行七步。此國在天笁城中。天笁又有神人,名沙律。昔(紀元前2年)漢哀帝元壽元年,博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受(口伝)浮屠經曰★復立者其人也(伊存が卑弥呼の始祖=★復立)。浮屠所載臨蒲塞、桑門、伯聞、疏問、白疏間、比丘、晨門,皆弟子號也。浮屠所載與中國老子經相出入,蓋以為老子西出關,過西域之天笁、教胡。浮屠屬弟子別號,合有二十九,不能詳載,故略之如此。
その【復立】とは~(前文略す)~昔(紀元前2年)漢(前漢)哀帝元壽元年,博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰「復立者其人也」。

【倭人传】・正始元年(AD240年/前文略す)~「复立卑弥呼宗女壹与,年十三为王,国中遂定」(後文略す)。つまり、卑弥呼は復立(昔の伊存をルーツとする人物)であり、その卑弥呼の宗女で13歳の壹与(イヨ)を王と遂定(スイテイ=定める)したので国が治まった。

(元伊勢「籠神社・系図」…クリツク検索 ⇒ ↓ ↓ ↓)
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRPVDuDgqLQz_sneqBGztwk-PNKHpIPLJ4-aQ&s

卑弥呼の系図



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Posted by 小島 宏 at 00:08 | Comments(0) | 卑弥呼の系図

2024年10月23日

【葉隠音頭】に思う事

2024年=令和6年「都道府県魅力度ランキング」で佐賀県が最下位とか~
因みに、「佐賀は良いとこ城下の町よ~」と言う歌詞が【葉隠音頭】(1954年=昭和29年ビクターレコード合唱団の歌で発売)にあります。クリック検索→ https://www.youtube.com/watch?v=YHyzDvcfZ-0



★佐賀(賢女が語元)の伊万里の語元(黎明的な意を含む語源ではありません)は、「救世主の降臨地」(秘儀数価~ゐ・τ190+ま・ε15+り・ρ153=358の出自は創世記49・9~10 ⇒ シロが来る)の意でした。その語元発信者であるクムラン秘儀教義宗団トップグループの人達の移動ルートは、『魏志倭人伝』の元文「三国志卷三十 ・魏志三十/烏丸鮮卑東夷傳 (三)」に記載されていて、その抜粋文を次に記します。

★筑摩本では安谷城をシリア西岸のアンティオキア、遅散城をアナトリア南岸のタルソス、烏丹城をその北東のアダナとしていますが、これに従うと却って混乱します。実際、パルティアには地中海岸に支配を確立した実績が無いので、安谷城は中国の百度百科が比定するイラクのユーフラテス河口の方が正しいかもです。因みに遅散城と烏遅散城が同じなのかどうかも不明。現在の地図を参照すると、安谷城からの海路は紅海ルート、陸路は黒海ルートの様に思え、情報提供者がわざと短距離ルートを隠したようにも感じます。

つまり、海路ルートは紅海(ギリシア語エリュトゥラー海)。陸路ルートは黒海からチベット経由でした。そしてその極東列島(日本)の初代王(後の神武天皇)となる人物は陸路ルートを選び、紀元前2年に後漢の哀帝(王莽が対応)を表敬訪問した【伊存】(イソン/大月氏国の使いだが太子の身分)でした。そして双方ルートからの移動の人達は、会稽郡(後の呉国)で徐福が極東へ向け出航した地域で合流し、アクスム王国(サバの女王とソロモン王の血筋を引き継ぐ部族/紅海沿岸港の町=現在のエリトリアのマッサワ近郊に住んでいた)の椰子船で、有明海北西部(最初の上陸予定地・杵島の白石町付近)に上陸する。その後に体制を整え(伊万里・腰岳産出黒曜石を用いる)て北側へ本拠地(吉野ケ里遺跡=邪馬台国)を移し、当時の表玄関に当る日本海に向けた表玄関港を【ゐまり=伊万里】(松浦は魏志倭人伝の「末廬国」が語元/【ゐまり】の語元~創世記49・9~10の預言文言IBASILH=ユダは獅子の子/王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れる事はない・と言う文言フレーズ数価358)と命名されました。


https://www.youtube.com/watch?v=YHyzDvcfZ-0  【葉隠音頭】(久保幸江・青木光一の 葉隠音頭)!!



  

Posted by 小島 宏 at 08:37 | Comments(0) | 徐福の上陸地

2024年08月23日

カミの【身丈柱】寸法解明の1ツ鍵とは!

◆今(2024年8月19日)から4年前、口伝カバラ教義の秘伝中の秘伝、その秘儀数価【236】の秘密を解読した内容の記事を投稿した文を此処にシュア ↓ ↓ ↓ しました! https://www.facebook.com/groups/152789241501872/?hoisted_section_header_type=recently_seen&multi_permalinks=3110719055708861 …

※(2020年6月28日)…【追記】(数価236の秘密が解れば総ての謎が解明出来ると、タルムードに記載)~その数価【236】の秘密を解明しました!

★ヤマト言葉に因る【ヤオ】(八尾)の語元数価は【507】(Ψ・276+Φ・231=507)です。そして、その数価【507】と、【フトマニ・図】中に配置されたカミガミ(下記に記載)の秘儀数価(カバラ数価)、つまり【1499】とを合計すれば【2006】に成るようにして、【フトマニ・図】中のカミガミの御名は設定されました。

★その【2006】(+天界との接近法・タルムード数価236=2242)の意味する処は、創世記(旧約聖書)に記された内容…つまり「大洪水を生きのびたノアの生涯の年数【2006】です。

★【ヨベル書】(旧約聖書)に因ると、再度、大洪水が起こらないようにとして、観念(想像)的【天界】に【大洪水阻止・祈祷文版】を、天使エノク(365年の時として天使に成りヤハウェと共に居る)が設置したと書かれています。従って、太占(フトマニ)図も、想像的【天界・アメ】値点の【タカマノハラ】(高間の腹)に設置されました。その値点は、天使エノクが天界に設置した【大洪水阻止・祈祷文版】設置値点と道義的意味を有します。

★観念的【天界】(アメ値点・高間の腹)と下界(地上)との交信手段として考案された文言単語が、つまり、⛩【鳥居】(ギリシア文字・Α1000+Τ300=1300)。そして神社の【置千木】(Χ・600)。及び、【カミ】(Β3+Κ55=58皇暦年スタート数価)のギリシア語名称【テオス】(θεοσ数価284/アイフヘ・モヲスシ数価と同じ)でした。その合計数価【2242】は、72人訳【ギリシア語・聖書】(聖書VS世界史~キリスト教的歴史観とは何か/岡崎勝世・著)を用いて「ノア・昇天数価として設定されていました。

★天界に於ける【大洪水阻止・祈祷文版】祭祀方式は、毎年に於ける「年々・契約方式」(大洪水のゲマトリア数価211が倭語アメ=天の語元である)とされています(ヨベル書6・9~33)。従って、1年の区切りを明確化する必要から、【ヤマト(日本)暦】を以て、年中行事が設定されました。そのコヨミの1年最後は「オオミソカ」(12月30日)の【オニヤライ・儀式】(1年最後の証拠とて注連縄を張り、翌新年を迎える門松を立てる)が設定されました。その意味する処は…【大洪水阻止・祈祷文版】祭祀契約(年々契約)に対し、自動更新として定義する為であった!!
★…以上…【追記】を終わります~

★(2020年6月26日)【フトマニ】中のカバラ数価~「アウワ」(数価367)+「トホカミ・ヱヒタメ」(数価848)+「アイフヘ・モヲスシ」(数価284)。その合計は【1499】として設定されました。

…以上。

◆『日本書紀』の底本である『ほつまつたゑ』の基本の全てが、太占図(ヤマト言葉の基本48文字配置図)に組み込まれています。

太占図の中心「ア.ウ.ワ数価370」は天御中主の語元として。その「トホカミ・ヱヒタメ」の秘儀数価(三角数)「848」の中の【58】は、暦のヱト(兄弟)数価として。尚、その数価は、日本のカミ(上の意)の語元として。そしてそれは神武天皇の即位元年(天鈴暦58年)の時として設定されました。因みに、神武天皇即位元年(幻の西暦1年目.辛酉)は、ユダヤ大地震年(ヘロデ王の第7年)からGodエロヒム数価の31年目の時(天鈴暦58年・辛酉)として設定されました。その神武天皇即位年から景行天皇崩御年迄の在位通歴790年を合せた天鈴暦の終焉年数価「848」は、「トホカミ・ヱヒタメ」として太占図の中に組み込まれました。

因みに、ヤマト(日ノ本と同義語)の国土形成文言「オノコロ」(オ.231+ノ.300+コ.253+ロ.6=790)の語元数価は、神武天皇から景行天皇の崩御年迄(在位60年)の在位通歴(通暦)年数価を語元として取り込み設定されました。

ヤマト言葉を構成する母音「アイウエオ」は、ギリシア語「アエイオウ」の並べ変え。従って、ヤマト言葉のルーツに当る古拙期ギリシア27文字カバラ数合計2600と、イオニア式24文字の三角数合計4995を合せた数価【7595】に対し、Godエロヒムとの接近数「236」(タルムード)を乗算し抽出した数価179萬2420と、ユダヤ民族の「大解放年」(2年間の安息年)とするヨベルのヨベル年明け50年を合わせた数価として「179萬2470」を抽出し、年数に変換。そしてその数価は天照大神(幼名ウヒルキ)の生誕年(ミモロの語元=天鈴暦300萬年-179萬2470=120萬7531年/21鈴125枝31穂)として、尚、天照大神の誕生年から反逆者の長髄彦討伐開始年(甲寅/紀元前7年に当る)迄の年数として設定されました。

太占の祝詞歌128数価は、太占図を八分割した図形の形状(ソムヨロヤチ/16×8=128は太占の祝詞歌数価・ホツマ14章)を数価八千(八衢の語元)の意として合算(128+8000=8128)し、紀元前迄に既に発見されていた完全数(ピタゴラスが発見)「6・28・496・8128」の第4番目「8128」(6と28は既に旧約聖書に取り込み済/496は開化天皇即位年として取り込む)として取り込まれた。そしてその数価は、ギリシア語訳聖書に記すノア昇天年数価2242を合せ(8128+2242)て抽出した「1萬370」の中の「370」は、言葉を司る「ア・ウ・ワ=天御中主」の語元数価として分離し太占図の中心に配置されました。残りの【1萬】は、エノク書21章5~6に記す~「1万時代が巡って来て、彼らの罪の日数が満る迄である」(ノア期の大洪水に関連す)~とする意(罪の年数の消滅)を以て、極東列島に於ける新たな国家創建構想数価としました。

その「1萬」数価は、「1萬枠・物語」(旧約聖書のヨブ記も枠物語とされる)として設定(アダム~ノア迄の生涯年合計8575+Godとの接近数236=8811+ヤマト言葉助詞テニオハ語元数価1191=満1萬1はヨロヅの語元数価とする)。つまり、その最後の数価「1191」(ダニエル書5・24~25/宮中に突然現れたGodの手先文字・メネ.メネ.テケル.ウパルシン文字のカバラ数価1191)が、ヤマト言葉の助詞テニオハの語元数価です。又、ユダヤ大地震年(ヘロデ王の第7年)から31年目に当る神武天皇即位元年(西暦元年)に始まり、景行天皇崩御年迄の在位通歴年数価として設定。残りの「370」(天御中主数価)は、天界との交信教義(神社の鳥居と千木を介す教義/師走・大晦の祝詞はpentēkostēの模倣)数価として設定されました。










     

Posted by 小島 宏 at 01:10 | Comments(0) | カミの【身丈柱】

2024年07月26日

神輿(ミコシ)のルーツはユダヤの移動式【契約の箱】!

神輿(ミコシ)の語元は峰越。それは、ココリ姫(菊理姫)が住む白山峰を越す乗り物(峰越)であり、その乗り物は、白山姫の孫アチハセが造ったと記す(ホツマ24章)。

つまり~越えのネの国(ココリ姫=白山姫の国)、アチハセ(白山姫の孫)が、峰越(斜めにならず/前後の担ぎ棒の高さを変えていたと考えられる)ささぐ~と記されています。然し、そのルーツは、古代イスラエルの契約の箱(移動祭祀所=幕屋の中に置かれる小さな木造の至聖所)に起因する。

ホツマ15章)~ココリ姫(菊理姫)、語れる事は、床立の、八方お巡りて、西の国、黒祖の罪テ、カに当る、名もアカガタ(赤縣神州・神仙の住む崑崙の地&金沙江付近~/崑崙山に発す長江上流地)の、トヨクン(豊君)ヌ、世々治むれど、年を経て、道尽きぬるお、ウケステメ(受棄姫=西王母)、根の国(北陸)に来て、タマキネ(玉杵)に、良く仕ふれば、身にこたえ、ココリ(白山姫)のイモ(妹)と、結ばせて、山のミチノク(道の奥/北陸地域?)、授けます。喜び帰る ★ウケステメ(西王母)、コロヒン(崑崙)君と、チナミあい、黒祖の積もる、御子生みて、西の母カミ(ウケステメ=西王母)、また来たり。

★~「ウケステメ」(受棄姫=西王母)とは紀元前500年頃の事として(竹簡書/穆天子伝)、穆(ボク)王が西に巡狩して崑崙に遊び、西王母に会って帰るのを忘れたと言う事が記されている。そして、そのホツマ時代(1世紀中頃~4世紀終り頃/仁徳天皇時代頃迄)の我が国には◆「蚕の絹」の織物が生産されていました。

◆~「蚕の絹」とは、白山姫は、産湯なす、カヒコ桑に、引く糸お、ナツメが織りて、ウブ絹の、ミハ(御衣)奉る(ホツマ4章)。 


何故、物部氏族(斑鳩に天降御座された天忍穗耳の子孫)が斑鳩(奈良県)から八尾(死海文書の断片文字・ΙΑΩが八尾の語元)へ移り、その地を居住地としたかと言えば、天忍穗耳の部下だった長髄彦(謀反を企てた)の討伐を、筑紫(九州)の宮崎を統治していたタケヒト(神武の幼名)に命じたのは八尾を居住地としていた大祭司AL(アラ)ヒトだったからだった。つまり、その後の政権をタケヒト(後に言う神武天皇)に譲ったからである。そしてその後のアラヒトは丹後方面(大江山の鬼退治伝説に関連す)に移住しました。


  

Posted by 小島 宏 at 05:52 | Comments(0) | 徐福の上陸地

2024年07月08日

懐かしき【葉隠音頭】(昭和35年=1960年)の思い出!

★【追記】~インナートリップ(26歳)の動機となった【葉隠れ音頭】。それは仕事で大阪に出て13年目(26歳/昭和48年の冬)の事、近所のお好み焼き屋で隣にいた或る人が、佐賀で暫く仕事をしていたと言い、【葉隠音頭】を歌ってくれました。それが切っ掛けで、私が7歳(小学1年生)の時に受けた啓示的文言「自分にしか出来ない事がある」を思い出し、直ぐ会社を退職し、インナートリップ(自由業)を開始しました。その甲斐あって、14年後(40歳)に3歳時に思った事、つまり我が国の「言葉の始まりが知りたい」と言う雲を掴むような話だが、その手掛かり掴みました。それで再度、会社での仕事を探し定年後の年金生活の中での研究により、我が国の国語【ヤマト言葉】、及び、「日本国家創建ルーツ」を解き明かしました!




小学六年生(昭和35年・伊万里市立山代西小学校)時の修学旅行は初めての観光バス(浦ノ崎グランドが集合地)での移動だった。然し、観光バスの車内は異様な臭い(バス座席のビニールシートの臭い?)で直ぐ胸が気持ち悪くなりバス酔いを思った。だがそれは自分だけかと思いヤセ我慢(何度も唾を飲み込む)してなんとか凌ぐ。そんな中(長い時間経過後)、バスガイドさんが佐賀平野の処を通る時、【葉隠音頭】(戦前は藤本二三吉の歌でレコード化。戦後は西来路ひろみの歌で再レコード化)を歌って教えてくれました。それでその葉隠の意を父に問うと~「初めから敗けると思ってもガムシャラに相手向かう事」(死を恐れない事)として、「武士道は死ぬ事と見つけたり」(著者・肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝)と言う文言を教えてくれました。

定年後(2012年後)、Googleで検索するも葉隠音頭の歌、その歌詞の事は全く検索出来ませんでした。だが今日(2024年7月8日)、検索すると在りました~!
…何故、葉隠音頭に拘っていたかと言えば、親父が教えてくれた佐賀の葉隠音頭に関連し、佐賀の武士道(死を恐れずガムシヤラに相手に向かう事)精神が、私の人生の中で何度(ヤクザに絡まれた事)かの死の危機を救ってくれて事。つまり、それで現在(77歳)に到っている故(現在は左目の失明を脱し快方に向かっている)を感じた事にありました…。
https://youtu.be/ZW55Ofx6sNk?t=21


  

Posted by 小島 宏 at 23:52 | Comments(0) | 日本建国史